東照宮より東六番丁を南下して45号線までの途中、中ほどに比較的広い道が丁字路でつながっている。そこを左手に曲がると西友小田原店がある。
その曲がった先には他にドラッグストアや小さな飲食店や商店がいくつも立ち並びちょっとした商店街をなしている。
しかし、この周辺では細い横道ばかりで他に商店街らしきものはなく、突如として現れたように感じる。
なぜここだけ急にお店が多いのか。メインストリートの東六番丁通りにあるなら納得がいくのですが…。
さらに西友小田原店の先を曲がったところの道幅がそこだけ妙に広くなっていて、200mほど行くと突き当たり右に折れる細い道となる。
以前からこの場所が不思議でなりませんでした。
↓西友の脇の通り
調べてみると昔この辺りは実は遊郭があったということです。なんとも中心部から離れた場所になぜ?
仙台の遊郭の歴史について大まかに見ていきましょう。
宿場町として栄えた国分町に明治2年仙台城にやってきた官軍の要請で遊郭ができました。
仙台城二の丸の官軍が仙台鎮台なってからはより近くの常盤丁へと遊郭が移転した(明治11年)。この常盤丁は現在の仙台市民会館がある辺り。
しかし常盤丁の南側に隣接したところに陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないということで、明治27年に現在の小田原六丁目あたり(常盤丁)へ移されました。
この地域はもともと江戸時代から蜂屋敷と呼ばれ二代藩主忠宗公より養蜂を始めた場所だったため、その名がついたということです。養蜂場は嵐で崩壊してしまいましたが、地名のみが残りました。
近くに昔から住む方に聞いたところ、東六番丁から小田原六丁目へ入る入口に大きな門があったそうです。通称 大門(おおもん)と呼ばれ、夜定時になると門を閉じ、人の出入りをできなくするためだったそうです。常盤丁の周囲も道が細くなったり曲がりくねってたりして袋小路に近い形状でした。
大門をくぐった通りの北側に遊郭がありました。
遊郭があった地域は新たに常盤丁と呼ばれて、市民会館の辺りは元常盤丁と呼ばれるようになりました。遊郭街のメインストリートは現在の西友の先を曲がった通りで道幅が広くなっています。
↓東六番丁から小田原六丁目に入る入り口
現在は遊郭の面影はほとんど残っていません。
強いていうのなら、「コーポラスあさかや」という集合住宅が突き当たりにあるが、これはもともと「安積屋」という遊郭だった。ここら辺でも大きな建物で木造5階建だったとか。
遊郭の南西の外れには十二軒長屋(じゅうにけんながや)と呼ばれる長屋があり通称 やり手ババアの住居があった。
やり手ババアとは当時 客引きをする年配の女性のことをそう呼び、彼女らの仕事は建物の格子窓から手を出しての客引きでした。なぜ表に出なかったのかというと、公道での客引きは禁止されていたためで、建物を敷地から少し下げたところに建て、そのスペースに客を立たせて建物の中から交渉していたのです。
↑上の写真の千登勢屋は旅館ですが、当時の建物のつくりの名残なのか、少し建物が敷地より下がっていて格子窓もある。
また遊郭は遊ぶ建物と宿泊施設と別棟になっていました。例えば通りを挟んで別棟が宿泊施設。
遊郭には質屋もセットで存在していた。遊郭で遊ぶためのお金を作るために質屋に行ってお金を借りた。そのため質に入れたものをしまう蔵もあり、それに使われていた蔵は今でも残っている。
メインストリート突き当たり西側に神社があった。現在はないがおそらくこの辺りのあんぜんと商売繁盛を祈願したものではないか。 また男客で気に入った女性がいて連れていきたい場合はこの神社で 遊郭と縁を切る儀式を執り行ったそうです。参道には桜並木が並んでいたそうです。現在の駐車場。
また遊郭に遊びに行くことを隠語のようなものですが「草餅屋に行く」と言ったそうです。
遊郭は華やかな場所でもあり、影がある場所でもあります。
売れっ子の遊女がいる一方落ちぶれた遊女は東八番丁や塩釜へと場所を移し仕事を求めたそうです。
またいわゆるヤクザもいくつか同時に存在して 守料(もりりょう)や ショバ代をもらうことによって、
いざこざが起こらぬよう秩序を維持していたそうです。
遊郭では職業柄特別な病気にかかることも多くいわば専属の病院がありました。場所はメインストリートの突き当りにありました。
昭和33年売春防止法によって赤線が廃止され、その後はその建物を活かして旅館や下宿屋に転用され、地名も旅籠町となった。
現在西友がある場所もあけぼの荘(遊郭:五城郭)だったところです。
先に述べたコーポラスあさかもしかりです。
唯一旅籠町の名残を今も残しているのはユースホステル千登勢屋だけです。
当時は相撲の巡業や野球選手などいろいろな有名人が泊まったそうです。
今の風景からはまったく想像もつきませんね。
余談ではありますが常盤町は仙台で初めて電話ボックスが設置された場所の一つでまさもあります。それだけ人の往来が多かったことを物語っています。
また仙台市内では毎年市内中心部以外にも七夕飾りが各地で飾られますが小田原で飾られるのもそんな繁華街であった歴史があるんですね。
旅籠町の名は今も公園の名称として残っているが常盤丁の名はどこにも残っていない。
しかし電柱を見上げるとかろうじてその名が確認できるのだ。
コメント (18件)
子供の頃、家の近くにGI相手のダンスホール蘇州がありました。向かいは錦映画館で、10年以上もたった頃、クラウンと言う名に変わり、さらに10年もして二日町に、ニューソシュウと言うディスコができてました。湾曲したメタルな壁で、向かいの家は反射で大変だったとか!
貴重な情報ありがとうございます。蘇州は錦町にあったのですね、それがクラウンの前進(?)
二日町はニューソシュウというディスコだったのですね。
ダンスホールとディスコをキャバレーの類に入るのか私にはわからないので、引き続き情報があれば知りたいですね。
ちなみに39年の地図で二日町を見ると現在パチンコのパラディソがある場所は「宮城木材KK」と表記されており、この年はまだ存在しなかったのかと思われます。
その後のニュージャパンは、ニューソシュウの「ニュー」を継承しているのかと勝手に想像します。
ニュージャパンのネオンも煌々として不夜城の如くだったことを思い出します。
昔話を聞いて頂き嬉しいです。
ソシュウを閉めた後、ゲームセンターが同居したボウリング場を始め、ボウリングが下火になって、キャバレーニュージャパンを始めました。その当時は、まだパチンコは本気でやってるようには感じませんでした。まっ私の印象ですが。はや半世紀も前の事です。
学生時代、熊谷屋さんの向かいの晩翠荘に一年半ほど住んでいた者です。ソシュウのことはボンヤリ覚えています。今のパラディソの向かいあたりにあったと思います。通りの東側でした。
ソシュウの8周年の花瓶が我が家に有ります!
素晴らしいです。できたら写真みたいですね。
今年64才になる仙台在住の爺です。
ソシュウは今のシャンボール二日町の所にありました。私の母が勤めてました。
ソシュウを閉めてから、今のパラディソ二日町の所にボウリング場を扇屋商事は作りました。フェニックス66という当時東北最大でした。その後ニュージャパンに変えました。
1階はパチンコでした。
ボウリング場です高校1年の私がアルバイトしていたので間違いないです。
懐かしい記憶がよみがえりました。
今のシャンボール二日町の所とは市役所寄りのレンガ調壁面の建物でしょうか。扇屋商事の表札があるので事務所が今でもあるのでしょう。
ずっと、パラディソの向かい辺りかと思っておりました。教えていただきありがとうございます。
ソシュウとニュージャパンは系列店だったということなんですか。
写真を送るのはやり方がわからないので携帯のアドレス書いておきます
興味がありましたらメール下さい、メールには添付出来ます!当時の写真から判断すると蘇州は私の父がマネージャーだったと思います
私の父が写っているか、わかりませんが、写真欲しいです。当時は写真が高く、数枚しかありません。バンドメンバーも、ほとんど記憶にあります。写真が凄く欲しい。どうぞ、よろしくお願いします。
ソシュウのドラムの娘です。あまりにも懐かしくコメントしました。小柳るみ子さんがソシュウに来たとき、小学生だったので、リハーサルをみせてもらいました。父はかっこよかったです。享年51歳で、かっこいいままなくなりました。
コメントありがとうございます。
もしかしたら現在駐車場になっているところ当たりなのかもしれませんね。
コメント、失礼します。
昔、「ニュージャパン」ってキャバレーに通ってました。
その当時の事が気にかかり、ググってましたら、
こちらにたどり着きました。
私、現在55歳でして、
当時は、19~20歳でした。
当時は、自衛隊に勤務してました。
その後、東京で「ホテル、ニュージャパン」の火事で、
地元にUターンして、ニュージャパンを懐かしく思い出して、はや、35年。
当時のネタ、あれば調べたいです。
コメントありがとうございます。
ニュージャパンがいつまであったかという正確な記憶はありませんが、「ホテルニュージャパン」の火事のニュースがあった当時、同系列のホテルなのかなぁと小学生の私は思っていましたが、
実はキャバレーたったということはかなり後から知りました。
1階はゲームセンターだったことは覚えてます。
なかなか調べようにも資料が無いですね。当時を覚えているからお話を聞くしか…。
管理人さん、わざわざ返信下さいまして、有難うございます。
私の、遠い記憶の思い出話しに付き合って下さいまして、嬉しいです。
ちょっとだけ、話しさせて下さい。
話しの舞台は、昭和58〜60年になります。
まだ、18〜20歳までの年齢です。
私は、高校を卒業して多賀城の自衛隊に入隊しました。
出身は、宮城県の隣県です。
普段から、柵に囲まれた生活をしてまして、唯一の楽しみと言えば、週末の外出です。
東北の繁華街、仙台市の国分町でした。
しかし、ニュージャパンは、国分町から離れた場所でした。
確か「木町」「二日町」のどちらかでしたね?
宮城県民会館を目印にして、ずっと奥の方に行きました。
白い建物で、真っ赤なデカいネオン看板に、
「世界の社交場、ニュージャパン」
と、あった記憶があります。
管理人さんの仰る通り、1Fはゲームセンターでしたね。
長い一本のエスカレーターが有り、昇ると「ニュージャパン」でしたよ。
書いてると、少しづつ思い出して来ました。
長くなるので、また、来ます。
よろしくお願いします。
煌々と光るネオン看板を毎晩、部屋の窓から見ていました。(自宅が目と鼻の先なので)
けっこう芸能人も来たと聞いています。
駅前には、アルサロ「天国」があり、パチンコ屋の裏に怪しい「未亡人クラブ」
がありました。
クラウンとタイガーが覇権を競っていましたが、
ニュージャパンの出現で、女性の移動が凄かったです。
ニュージャパンの女性は、その当時出たばかりの
ポケベルを持たされていました。吃驚です。
ホールは野球場の階段状になっており、凄かったです。
当時は、どこも生バンドがあり、そのバンドをバックに
歌うのは、とても気持ちの良いものでした。
空襲で焼けた仙台市長車のエンブレム
http://blog.goo.ne.jp/mbne230/e/c61d718af840bfbfc8e0cf0794dc9d40
文化横丁
http://blog.goo.ne.jp/mbne230/e/6805309eb0157be3e2c4627079b173e1
こんにちは。
学生時代に仙台で過ごされたんですね。
この時代をお過ごしになった方のお話はとても参考になります。
ありがとうございます。
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