仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

タグ:四ッ谷用水

へくり沢ウォーキングマップ

2018/4/10

以前もブログに書きましたが、仙台市の八幡町界隈を昔流れていたへくり沢(蟹子沢ともいう)があります。現在は暗渠となているそのへくり沢をもっと地元の人に知ってもらおうと、この度柏木市民センター主導で案内板を作成設置しました。

柏木市民センターでは、これまでへくり沢について4回にわたる講習会から始まり、その後講習会参加者の中から声掛けした有志でへくり沢地形模型の製作、さらに昭和15年ごろのへくり沢が脇を流れる八幡小学校を中心としたジオラマ模型の製作をしました。そしてその2つの模型を活用すべく、へくり沢ウォーキングと題し一般参加者を募集して、歩いてへくり沢を案内したあと柏木市民センターにて模型を使って説明をするという事業を何回かに分けて行われました。さらに集大成としてへくり沢ウォーキングの案内板を作ることになったのです。

これまで柏木市民センターの館長さんはじめ、ジオラマ作成メンバー、関連町内会長連合会の皆様で何度か集まり意見交換をしたり、実際歩いて現場を確認したりしてようやく12月末に案内板が完成設置に至りました。

※下の看板はルート最初のもので知事公館から新坂を下ったところにあります。

f0068891_13120833.jpg
※出来上がった看板を確認するメンバー。
f0068891_13121679.jpg
※マップ作成に向けて協議するメンバー。
f0068891_13121925.jpg

この案内板は単なるへくり沢の説明だけではなく、源流地点から広瀬川への合流地点まで8カ所に設置され、それらを辿ってへくり沢の流水域の跡を散歩してもらい地域の歴史について興味をもってもらおうというのが趣旨です。

案内板の詳細はこちらで見ることができます。↓



さらに、持ち歩きに便利な紙ベースのマップを作ることになり、案内板のデザインが完成後すぐに作業に取り掛かり、年末から始めて締め切りが2月までととてもハードなスケジュールで作ることになりました。(年度末までには全ての事業が終わる予定)

まずはマップ作成メンバーで集まり主旨を理解し、どのような形(デザイン)にするか、内容は何を入れるかなど話し合われました。

マップに関しては散策ルートの表示はもちろん、中に盛り込む情報や、高低差だったり、古地図も入れたい…と色々な意見が出まして、何度も修正をしながらやっと完成にこぎつけました。

マップの大きさはA3サイズの縦に4つ折りになっていて持ち歩きに便利な形状になるよう工夫されています。現在の地図の他に大正元年の地図とも比較することができ、また下部には歩くコースの距離と標高が看板の地点地点でわかるようになっています。

裏面にはへくり沢にまつわる様々な説明や事柄が記載されていて、興味が湧くこと必至です。

もちろん紙面の制約上、このマップに書かれていることで全てではありませんが、概略がわかるように考えて作りました。

3月9日には柏木市民センターてマップ完成お披露目会が行われて関係者が集まり、東北文化学園大学の八十川先生の基調講演がありました。

f0068891_13135194.jpg
f0068891_13135606.jpg
こちらは前柏木市民センター館長の岡崎さんです。一連のへくり沢の講座は岡崎館長が始めました。のちに現小野館長が引き継ぎここまで来たわけです。
f0068891_13140124.jpg
また3月17日には一般参加者を募集して、マップを実際手に持って各案内板を辿りながらみんなで歩きました。知事公館から出発してへくり沢をさかのぼりました。
f0068891_13143418.jpg
f0068891_13144197.jpg
f0068891_13144541.jpg
これが完成したウォーキングマップです。
f0068891_15232154.jpg
f0068891_15232334.jpg

コメント (3件)

  1. 米倉 達夫 より:

    この「へくり沢」のウオーキングマップを手に入れることはできるのでしょうか?

    1. admin より:

      「へくり沢」ウォーキングマップは柏木市民センターに問い合わせて在庫があればもらえるかもしれません。

      1. 米倉 より:

        ありがとうございました。(返信が遅れて申し訳ございません)

コメントする 

明治時代の煉瓦造の下水道が今なお生きている

2016/11/11

仙台出身の伊坂幸太郎監督のゴールデンスランバーの中でも堺雅人演じる青柳雅春が逃走する際に使用したのでも仙台の街中の地下を通る地下下水道。
その中でも明治33年に造られたレンガ造りの下水道で勾当台公園あたりから定禅寺通りの下をまっすぐ通って広瀬川に流れる部分の一部が公開されました。
新聞でも7月ごろの記事に公開予定の内容が載っていて楽しみにしていました。

市政だよりで一般公開の公募が始まると早速申し込みをしました。
当日あいにくの雨でしたが予定の時刻には大分小雨になりました。
6名のグループで3名ずつに分かれて見学しました。

f0068891_15505717.jpg

場所は市民会館隣のSLが展示されているところの脇です。新しく整備され地下が上から見える天窓と、下へ降りる入口が作られました。

f0068891_15501404.jpg

このレンガ造りの下水道は土木遺産に登録されたそうです。

f0068891_15522393.jpg
入り口から入り下まで螺旋階段を8メートルほど降り進むとレンガを一部壊して中に入れるようにしたところがありました。この部分から中に入るのですが、入って右側が広瀬川への出口で、左側が定禅寺通り方面です。
f0068891_15535060.jpg
f0068891_15541824.jpg
最初に広瀬川への出口を確認。トンネルの先の明るくなっているのが広瀬側に抜ける出口です。
f0068891_15553854.jpg
反対側へ行くと定禅寺通りから来た下水がカーブして処理場へと流されます。雨水など水量が多くなるとこのカーブの縁を越えて広瀬川へと流されます。
この穴の向こうが定禅寺通りです。カーブせずまっすぐそのまま進めば先ほどの広瀬側へと注ぎます。
f0068891_15572202.jpg
こちらはカーブした先の右側、向かう方角は南です。
東から流れてきて広瀬側手前(SLの下あたり)でカーブして南下します。
地下に潜ってしまうと方向感覚がわからなくなってしまいます。
f0068891_15573759.jpg

コメント (0件)

コメントする 

ありがとう農学部

2016/10/30

雨宮キャンパス感謝祭が10月28日29日30日の3日間行われました。
これは東北大農学部が雨宮キャンパスから青葉山へ移転することになっているので、今までの地域の皆さんへの感謝を込めたお祭が行われたのです。

f0068891_15083355.jpg

 

f0068891_15083471.jpg



この敷地は農学部以前から歴史があり旧制二高が片平から移転して来たのを始まりに一時期は宮城一女高が間借りした。農学部は昭和49年より、以降都会のオアシス的な存在でもあり緑が楽しめるスペースとしても市民に愛されてきました。

旧制二高当時に建てられた守衛所も現存しているのでどうにか残して欲しいです。

f0068891_15083539.jpg



また周囲には当時の赤煉瓦も残っています。

f0068891_15083625.jpg


色が違うのがわかるでしょうか。
新しい部分は寮の入り口だった所を塞いだものだそうです。
建物の中では昔の写真や説明が展示されていました。見にくる人も昔近所に住んでいた人や当時通っていた人など懐かしいという声が聞こえて来ました。

f0068891_15083671.jpg

 

f0068891_15083744.jpg



また仙台の古いものが無くなる、悲しい。
古いものを壊すのではなく活用して町おこしができないものか。
そんなことを考えてしまいます。


コメント (0件)

コメントする 

へくり沢にはもっと上流に源流があった

2016/10/29

柏木市民センターでの事業
「へくり沢ウォーキング」
今回で4回目です。ひとまず最後になります。
最初の1〜2回目は2015年の11月に行われれ、柏木市民センターから出発してへくり沢を下って広瀬川との合流地点まで歩くというもの。
3回目は6月に行われる、今度は逆に上流へと歩きました。出発は新坂の上にある知事公館からで春日神社の辺りまで行き柏木市民センターへ戻るというもの。

そして今回はこれまではへくり沢の下流部分を歩いたのに対して、「源流を訪ねる」と題しまして上流部分を初めて歩きました。

f0068891_08501430.jpg


参加した人数は定員の15名。

f0068891_08503114.jpg

まずは出発前に模型を使って予習です。

f0068891_08511895.jpg
f0068891_08521416.jpg


いつもは最後になる春日神社から始まり今野さんも張り切って説明していました。

f0068891_08524629.jpg

ここは四ツ谷用水とへくり沢が交差する所なので、四ツ谷用水の洗い場跡を見学して、実際立体交差している部分の上に立ちました。
みんなが立っているのが四ツ谷用水の上で、2枚目の画面左側石垣が見え土地が下がっているのがわかると思いますが、へくり沢の滝の部分です。

f0068891_08533667.jpg
f0068891_08541869.jpg


へぇ〜この下を四ツ谷用水が流れているのかぁ。

f0068891_08545228.jpg

へくり沢の暗渠部分は道が赤くなっていて赤道と呼ばれています。その赤道を辿って行きます。

f0068891_08553078.jpg

途中タコ公園で一休み?

f0068891_08554777.jpg

さらに歩くと国見小学校に着きます。

f0068891_08562170.jpg

道路に出てから国見コミュニティーセンターへ向かいます。

f0068891_08565569.jpg

信号の隣に花がお供えされていますが交通事故とかそういうものではなく疱瘡神様なのです。
もともと国見台病院の敷地にあったものの一つで病院を建てる祭、移動したそうです。

f0068891_08571008.jpg

背後の建物は国見児童館でここがその昔堤でした。つまりため池でここからへくり沢が下流へと流れて行くのです。

f0068891_08574654.jpg

ちなみにこのすぐ上の国見コミュニティーセンターも堤で2段階になっていました。

少し移動して福聚幼稚園の駐車場に来ました。ここから下を見ると地形が溝のようになっています。
これはへくり沢へと流れ込む支流でキツネ沢いうそうです。

f0068891_08593596.jpg

柵の右側の溝がキツネ沢になります。

f0068891_09010599.jpg
下の国見コミュニティーセンターから見た写真で正面の木の左側に側溝がありますがそこの場所を通って堤に流れ込んでいたと思われます。
f0068891_09022315.jpg


近くに仙山線の駅、東北福祉大駅がありその脇に道路が通っていますが、駅が作られる以前は芋沢街道と言って細い道が本道として使われていました。
それでも昔はバスが通っていたそうですが、今ではその街道を横切る踏切は人しか通れません。

f0068891_09043154.jpg
f0068891_09054034.jpg
f0068891_09055969.jpg



先ほどコミュニティーセンターと児童館の堤からへくり沢が始まると言いましたが、実は源流はもっと上なのです。
堤とは川を堰き止めてため池を作り農業用水として使っていたのです。ならばその先にもっと上があるのは当然です。

f0068891_09065758.jpg

芋沢街道の踏切を越えた少し先が本当のへくり沢の源流だったのです。
ここは昔の地名で一ノ坂、二ノ坂というそうで、今でもその名残が感じとられる建物の名前があるというのはとてもいいことですね。

f0068891_09071285.jpg

ということで今回はここで解散です。


コメント (0件)

コメントする 

へくり沢探索ツアー

2016/6/4

3年前から柏木市民センターではへくり沢について講座が行われてきました。
最初は3〜4回に分けて講師を呼んで講座がありまして、私はへくり沢に興味があったのですべての講座に参加しました。

【へくり沢おさらい】
仙台城下町の北西に位置する深い沢、現在の八幡町あたり。
そこにかかる橋を土橋といい、そこに通ずる道を土橋通りと呼んだ。
へくり沢はどこなのか、土橋はどこなのか、なぜ土橋通りと呼ぶのか、幾つかの疑問を持っていたところにちょうどこの講座があったので参加しました。
その後講座を受けた人の中から有志で昭和33年の仙台市の地形模型を製作し、翌年には今野さんの描いた絵を参考に八幡町界隈のジオラマを作製。いずれもへくり沢の地形が詳しくわかるものでした。

この事業は4年間と決まっているそうで、今年がラストイヤー。その集大成で完成直後まずは一般の方を迎え事業報告会、そして翌年の柏木市民センター祭りで来場者への披露及び説明、
さらに実際にへくり沢跡を受講者たちが今までの知識を元に市民(まち歩き参加者を募り)に説明しながら歩く事業を行いました。
すでに去年の11月に2度行っており、今回は3度目。

今回のスタッフメンバーは柏木市民センター小野館長と山内さん、有志メンバーより私の他、北波さん、三品さん、鹿戸さん、付き添いで青葉区中央市民センターのお二人。その他、春日神社待機組が今野さんと皆川さんです。

f0068891_17325958.jpg



今回6月4日に行われ、この日はとても天気が良く、良すぎて日焼けしてしまうほどでした。
前回の集合場所は柏木市民センターでしたが今回は知事公館です。

f0068891_1328116.jpg

 

f0068891_1520816.jpg



ここはすぐ下に新坂という坂があります。新坂というからには新しい坂です。そしてそこへ向かう道を新坂通りと呼びます。
現在の新坂通りはそこから大学病院を越して北側に位置します。そこは新坂町がありますがそこから南には大学病院に突き当たります。
しかし本来なら大学病院ができる前は道があり、さきほどの新坂まで繋がっていたのです。
ちなみに大学病院ができて寸断された時は西側脇に新新坂通りが作られました。

新坂は新しい坂と申しましたが、これはへくり沢を渡るために元禄年間頃に新しく作られた坂という意味です。

館長さんの挨拶と北波さんの解説。

f0068891_15505630.jpg

 

f0068891_15511346.jpg



まずは15人ほど参加者が集まり2班に分かれて出発しました。
最初は知事公館よりすぐ下にある東北で最古の板碑、澱橋不動尊。

f0068891_15473677.jpg


それについて一通り説明が終わると何やら隣の民家に移動してここには大砲の弾があると説明してくれました。
説明してくれたのはそこに住む方でした。何やら集まっているのを見てせっかくだからと庭の敷地に入れていただきました。他人の家なので本当は入っていけないのですがご主人自ら説明してもらい、思わぬ偶然にラッキーでした。この砲弾はロシア戦争の時のものらしいです。

f0068891_13524118.jpg



そこからへくり沢の河口にあたる地域を歩きました、ここは暗渠で現在、住宅地になっています。ちょうど尚絅女学院の裏の崖です。

f0068891_14282821.jpg


上の写真は下の写真の住宅の真ん中を通る道路を歩いているところです。

f0068891_15244237.jpg

 

f0068891_15534028.jpg



とても深い崖になっていますが、普通河口でしたら浅く広がりをみせています。しかしその昔へくり沢と広瀬川は平行して流れていて、流れの速い広瀬川にその一部を取られてしまったのです。いわゆる河川争奪で途中からもぎ取られたため本来の河口部分が無くなり深い沢からいきなり広瀬川に流れるような形になったのです。

集落を抜けると壁にぶち当たります、この壁こそが土橋なのです。よく見るとジグザグにつたって上に登る道があります。国道48号戦から尚絅女学院へ向かう途中両側を見ると両側は深い崖のようになっています。つまり沢を横切るように道が走っているのです。

f0068891_14292772.jpg



f0068891_14302939.jpg


土橋に上がってから疱瘡神を見学。
これは一見何でもないような石ですが、ここを工事した時に掘り起こされ、その後、実はたいへん古いものだと判明しこの場所に祀られたそうです。

f0068891_1529554.jpg


我々がここから移動しようとした際にここの町内会長さんが声をかけてきて疱瘡神について当時の事を話してくれました。掘り起こされ時は単なる石と思われ捨てられたのですが後から貴重な歴史的石だということがわかって一生懸命探したそうです。誰も見向きもしない石を一生懸命見ている人達がいたので声をかけたそうです。
当時の話を当事者から聞くのはとても貴重でした。

f0068891_15442678.jpg



土橋の反対側に周り、急な斜面を下りて行きました。ここもへくり沢の深い崖です。
その昔、戦前ここには旧制ニ高のアイスホッケーのリンクがあったそうです。
当時リンクを管理していた庄子さんのご子息がそこに住んでいてお話を聞くことができました。

f0068891_155654100.jpg


現在は建物が建っていますがそこにリンクがありそこに張った水はへくり沢の水ではなくもともとは四谷用水の水だったのだそうです。四谷用水とへくり沢が交差する春日神社の掛樋から12月の5日間朝の8時から夕方の5時までへくり沢へと解放したのです。そしてリンク使用中、へくり沢はリンクの下を流れていたらしいです。

f0068891_15572649.jpg


なぜここにリンクを作ったか?ここはスペースがあり深い沢で日陰なので氷がなかなか溶けにくいことが理由にあげられます。
大きさは30m×60m、これらのことは尚歯会の文献に残っているそうです。

このあとへくり沢の暗渠に沿って遡り石切橋まで移動しました。

f0068891_15585489.jpg


ここまでくるとへくり沢はある程度細く浅く、渡りやすくなりこの橋を通って昔の人は西側と東側の往来をしていました。
逆に言えばここしか橋が渡せず、中島丁の侍もみな遠回りをしてここを通ることになります。
ここは昔の欄干の名残があります。

f0068891_15592938.jpg



春日神社に移動して待機していた今野さんが説明をしてくださいました。
社殿の中に掛けられた今野さんが子供の頃の昭和15年頃の記憶をもとに本人の描いた八幡小学校界隈の絵図を見ながら、説明を受けました。質問も多く出てなかなか終わらなかったようです。

f0068891_1665249.jpg


春日神社の社殿より参道入り口の鳥居までいくつか段差があり、その途中を四谷用水が横切っています。神社より東へ30mほど行くと昔四谷用水の水を使って洗い物をしていた洗い場跡があります。

f0068891_1653763.jpg


今回はへくり沢がメインなのでいったん戻り、いわゆる赤道(あかみち)となった暗渠を辿ります。この赤道は春日神社脇の四谷用水と交差するところから国見小学校あたりまで続く遊歩道になっています。

f0068891_1685750.jpg


交差の場所はあの「プラタモリ」でタモリさんも訪れたところ。

f0068891_1673284.jpg


赤道をしばらく進み、道は更に続くのですがタコ公園のところで右折して土橋通りに出て柏木市民センターへと向かいました。
市民センターに着いて総括をしたところで解散。

f0068891_1694886.jpg

 

f0068891_1610879.jpg

 

f0068891_16102299.jpg

コメント (0件)

コメントする 

仙台北法人会青年部会のメンバーが四ッ谷用水について学びました

2015/11/27

経営者の集まりの団体という仙台北法人会青年部会の事業で「四ッ谷用水を辿る会」を実施ました。 青年部会は特に30〜40代のメンバーが多い中で仙台郷土の歴史に興味はあれど触れることはなかなかないので今回の事業はとてもいい機会だったのではないでしょうか。 講師に「仙台・水の文化史研究会」の会長を務める柴田さんを始め3人の方にお願いしました、我々メンバーは二つの班に分かれて説明をしていただきながら四ッ谷用水の暗渠を歩きました。
スタートは大崎八幡宮のちょうど二之鳥居をくぐってすぐの太鼓橋からで、ゴールは北六番丁の茶室「六幽庵」までの四ッ谷用水の暗渠を辿りました。 太鼓橋の下も四ッ谷用水がが流れています。 私は以前にも何度か四ッ谷用水を歩き、ある程度知っているつもりでしたが、青年部会メンバーと一緒に歩くことができて、また新鮮でした。
フェンスの向こう側が四ッ谷用水です。現在は仙塩工業用水道導水路として使われています。
下の写真の歩いている左側が暗渠になります。
正面の緑の柵の左側の歩道が暗渠です。不自然な道幅になっています。
正面の建物はブラタモリにも出たところです。
上の写真の正面のアパートの向こう側から下の道に降りました。 ここ石切町にある瀬田谷不動尊は石切職人の神社でここで職人たちが踊った踊りが雀踊りの由来となったそうです。
石切町はその昔仙台城の石垣を造った石垣衆の屋敷があったところで、今も小梨石材店などがあります。
ちなみに写真の小梨石材店は盛岡から来たそうで、比較的新しい石屋さんなのだそうです。(もちろんかなり古くからあります)
築城当時から残っている石材店は48号線沿いにある黒田石材店だそうです。
春日神社の参道にある昭和15年ころ当時を思い出して近所に住む今野氏が描いたこの付近の絵です。 これをもとにジオラマかした模型が柏木市民センターに展示されていますので興味のある方はぜひご覧ください。
この先の春日神社の前を四ッ谷用水が横切っています。
上の写真の鳥居をくぐり階段を上ると境内との境目に四ッ谷用水が流れていて、その暗渠の上を歩くことができます。これを東に少し移動したのが下の写真。
これが四ッ谷用水へ降りる階段跡になります。住居の土地から四ッ谷用水までの高さが少し伺えます。ここで洗い物をしたのでしょうか?
春日神社から階段跡の途中に南に向かう第一支流跡がありました。この塀の向こうの直線的な通路がそうです。
土橋通に第二支流がちょうど歩道のあたりに流れていました。
写真は土橋通に面する宮城県看護協会で、ここがその昔伊達綱村公のお飼鳥屋敷跡でした。最近まで当時の松が現存していましたが今は病気で切られ切株のみがあります。(グーグルマップのストリートビューでさかのぼると松の木が確認できます。https://goo.gl/VZucW4
ここから東へ向かい北六番丁を歩くわけですが、四ッ谷用水はまだ道路の少し上を流れています。 下の写真の奥に見えるのは林宅寺へ用水を渡る石橋です。この写真を撮った辺りが(北六番丁の)通りの高さのピークでそれを過ぎたところ(となりの建物)で北六番丁通りへと降りてきます。
林宅寺となりの建物前の部分を通り道路へと合流します。
ここが合流地点。
ここは支倉堀と言って東北大学構内にあり、一部保存されています。四ッ谷用水はだいたい南側の仙台中心部へと支流から流れていくのですが、ここは珍しく北側へと流れていきます。
最後六幽庵に到着して、せっかくなので庭園を一周見て回りました。 六幽庵は仙台市の茶室ですがさまざまな用途で借りることができます。
もともと仙台市内の建設会社の橋本店から仙台市に旧橋本邸離座敷を「茂ケ崎荘」とともに寄贈されたもので、昭和33年(橋本店ホームページより)仙台市立第二中学校の北側の仙台市長の官舎脇に移築されました。
しかしながら残念なことにさほど使われることなく建物も朽ちて、また官舎に市長も住むことがなくなってしまったので平成に入り解体されたそうです。 そして平成3年に新しく生まれ変わって市民の憩いの場として建てられました。仙台市管理のもと市民に貸し出しがなされましたが、これもまた残念ながら存在があまり知られていないために十分に活用されていなかったようです。 そこで最近になり第3木曜日を一般無料公開日として利用を広めるよう力を入れています。 街なかにひっそりと佇む空間として心が落ち着きます。ぜひ足を運んでみてください。
お抹茶と菓子をいただき一息ついたところで柴田さんの貴重なご講話をみんなで聞きました。
立礼室(りゅうれいしつ)という外履きを履いたまま入れる部屋で行いました。
参加したメンバーは初めての体験でとても満足していたようです。
これからは街を歩いていても見る場所がきっと違ってくると思います。
最後にご協力いただいた「仙台・水の文化史研究会」の皆様大変ありがとうございました。 感謝申し上げます。

コメント (0件)

コメントする 

さらば農学部

2014/2/18

北六番丁沿い、ちょうど勝山スケートセンターがあった場所の向かいに東北大学の農学部があります。そこは街中であるのに閑静で自然が多かったり、羊などが放牧されていて、それを見に近くの保育園児達がお散歩に来たりと憩いの場にもなっています。
また周辺には小学校や中学校などの教育機関も多い。


今度 東北大学農学部雨宮キャンパスの青葉山への移転により、現在の敷地が別な用途へと使われることになります。
昨年(平成25年)の4月に仙台市と仙台商工会議所と東北大学でもその敷地の活用と街づくりに議論が交わされ商業施設・居住施設・医療施設・オアシス空間などを盛り込んだ土地利用構想が考えられ、それに基づき施設などが設けられる予定らしい。
そしてこの度1月初めに入札が開始され同月31日にイオングループに落札されたことになったのは新聞などのニュースでも記憶に新しいと思います。
現在の農学部には旧制第二高等学校時代の建物があり、
現在でも入口の守衛室としては使われており大変貴重なものです。
屋根はマンサード風で北仙台駅の駅舎にも同じ様な形が見られる。
(計画によると残されるようです)

他にも旧体育館の建物がありましたが残念ながら守衛さんによると去年の春あたりに解体されてしまったそうです。
現在の様子(砂利の空地のところに建物はあった)

また戦後しばらく宮城県第一女子高等学校があったらしく、その碑も残してほしい。

また脇の雨宮堤通には雨宮神社(磐上神社)がひっそりとあり、その境内あたりには四ツ谷用水の名残で用水に架けられた橋が残っていると聞いたことがある。

実際見てみるとこれのことなのか。(白い部分)

四ッ谷用水は北六番丁を本流とし梅田川へとそそいでいく。
そして農学部の近辺にはその名残である欄干の標柱が残されている。
これは当時仙台市長だった島野市長に付属小学校4年生の児童たちが手紙を送って保存を懇願したことによって残されたものであるという。

今後どのように再利用再開発されていくのかはわからないが、四ッ谷用水を市民に知ってもらうチャンスとして、農学部跡地には四ッ谷用水の資料館などの施設をぜひ盛り込んでほしい。


コメント (0件)

コメントする 

仙台藩第4代藩主綱村縁の二本松

2014/1/6

以前四ツ谷用水を辿った時に見た松の木

ここは土橋通沿いにある宮城県看護協会会館・看護研修センターの敷地で、その昔仙台藩四代藩主伊達綱村公が水鳥を飼っていた御飼鳥(おかいどり)屋敷があった跡で、当時の松が現在もなお残っているということでとても感慨深いものがありました。
しかしながら、先日見た時には無くなっていてとても驚きました。少し前に松が病気にかかっているという話を聞いたことありましたがまさかこんなに早く無くなるとは…。

宮城県看護協会会館・看護研修センターで話を聞くとやはり2013年の11月30日にやむなく切ってしまったそうです。
仕方が無いことです、その松を見れただけどもよかったと思うしかありません。
よく見ると切り株が二つありました。説明文には「二本松」と書かれており、そもそも二本あった両方とも枯れてしまったということなります。


コメント (0件)

コメントする 

四ッ谷用水の上流を訪ねて パート2

2013/11/1

北堰をあとにまたバスで移動して聖沢へ。
ここは聖沢をまたぐために木製の箱樋(水路橋)が架けられた。現在はコンクリート製で上の三つのスリットは降雨などで水量が多くなった際に余分な水を流すための穴。

写真はカーブする旧道を撮ったわけですが、実は昔直角の道だったとか。ガードレールの向こう、人がいるあたりが昔の道でその下を四ッ谷用水が通っている。

上の写真の先にあるのが池の跡。鬱蒼と生茂っているが現在は水はありません。昔の第三隧道出口付近にためられた防火用に使われた溜池。その証として「防火用水」という標柱がある。

「防火用水」という標柱はだいぶ古いもので以前は池の脇に立てられていたものが朽ちて倒れていたそうです。それを近くに住んでいる方が現在の場所に立て直したそうです。「火」という文字は確認できる。

さらに向こう側には隧道を掘る作業用の穴、「ズリ出し口跡」がありましたが、バスが停車することができず写真には撮れませんでした。
そしてさらに向こう側、八幡研修センター(旧文理ランドスケープ園芸専門学校)の敷地が昔の沈砂池だそうです。現在は水はありません。
そして今回いろいろ知った中でおもしろかったもの、それは「四ッ谷用水湧き上り」というものです。
下の方から隧道を通って上へと流れていく、まさに湧き上っているかのような場所です。実際のものはすでに無くなっているので確認することはできませんが、昔を知る方から聞いて書いた想像図を見ると、なんとも不思議な作りです。逆サイフォンの原理とも言われていますが、私にとって謎が多いです。なぜなら四ッ谷用水はそもそも河岸段丘に沿って緩やかな傾斜を利用して仙台の町へ流していたのになぜこのような構造をつくったのか?出口の作りがアーチ型だというので明治時代に造られたらしいが、謎は多い。

イメージ図から場所は賢淵あたりの国道48号線と弘法山の間あたりのようです。


この後は柏木市民センターで昼食ととり、休憩後ワークショップとして四ッ谷用水に対する意見交換をしました。四ッ谷用水の存在を広めるにはどのようにしたらよいかなど。
また、東北大雨宮キャンパス(農学部)が青葉山に移転するにあたりその後の土地活用の一つとしてなんとか四ッ谷用水に関するものができないだろうかなどという話も交わされました。北六番丁を本流とする四ッ谷用水はちょうど農学部のあたりを通っているのです。ぜひ有効利用できたらいいなと思います。
なんだかんだでまた長くなってしまいましたが、
今度は自分でまた行ってみて、じっくり見てきたいと思います。
今回見たところ


コメント (2件)

  1. kumagai-ya より:

    SECRET: 0
    PASS:
    さなえ様 いつもありがとうございます。またお越しの際はよろしくお願いします。

  2. さなえ88 より:

    SECRET: 0
    PASS:
    今日もダッシュでくるみゆべしを15個買いました!只今名古屋への帰路ですが我慢できず一つ食べました(笑)
    相変わらず美味しいです。
    仙台の歴史も楽しく拝見しています。

コメントする 

四ッ谷用水の上流を訪ねて パート1

2013/11/1

「政宗公の用水原点を見る!」と題しまして、「四ッ谷用水の水を街並みに!」市民の会で企画された四ッ谷用水の上流をバスでたどるツアーに参加してきました。
昨年、大崎八幡神社から支倉堀あたりまで歩くツアーに参加してとても勉強になりましたが、今回はその上流編。下流であれば自分でも簡単に見に行くことはできますが、上流となると難しい。県の管理している場所もありますし、…でもこういうツアーだから見れる場所がありました。
今回のバスツアーでいろいろ知ったことがありますが、まだまだ疑問・調べたいことがたくさんあります。なので、あまり深く掘り下げず見てきたことを中心に書きたいと思います。
朝の9時過ぎ霧雨が降る中仙台市役所噴水前に集合。

コースは市役所~郷六(現在の取水堰)~北堰(昔の取水堰)~工業用水沈砂池~聖沢掛樋~柏木市民センター~市役所前
このバスに乗って行きます。

四ッ谷堰に着きました。ここで県の管理している方から説明を受けました。ここに来るころには雨もなんとか止んでくれました。

ここの標高は65m、梅田川合流地点は40m、そこまでの距離は7.2kmなので0.3%の勾配を利用してうまく用水をながしています。
四ッ谷堰は以前はここから800m下流にあったものが時代とともにだんだんと上流に移動し、ここに移ったのは明治10年頃で、昭和30年代に工業用水に使われることなり、ピーク時は毎時4000トンも流していたそうです。震災の影響もあり現在は毎時1500トンほど流れているそうです。
この先は宮城野区大梶にある水道事務所まで約2時間かけて送られ、そこから塩釜市内・パークタウン・仙台港方面の各企業へと送られます。実際のここの操作は遠隔で大梶の事務所から行っているそうです。
ここでの管理は取水量の調整のほか、ゴミの除去、濁度の管理、pHの管理を行なっています。
濁度は10度以下、平均にして4~5度だそうです。
pHは7度に調整され流されます。これは薄くても濃くてもだめで、パイプを傷つけないためでもあります。
一番気を遣うのが油だそうです。上流から流れてくる油。すぐ近くにも生瀬橋(おいせばし)という橋もあり、そういった橋の上で車両事故が起こると車の油が川へ落ちる可能性があるため、事故情報には特に注意を払っているそうです。
これが除塵機。大きな熊手のようなもので落ち葉などのごみをかき上げて上部に集めます。

下から見たところ

ここに塵が集められます。よく見ると奥に大きなもずく蟹が!昔はもっとたくさんいたそうです。

この堰は川に対して斜めに設けられている全国でも珍しい堰だそうです。実は現在、川に対し斜めに堰を設けることは国で許可されないのだそうです。(すみません、理由は忘れました)
橋の下から左へ流れるのが広瀬川本流、本流から脇の水路に堰を利用して水を引き、先ほどの除塵機へ流れていく、そして余計な水は手前のところから本流へと戻してやります。

続いてバスで移動して沈砂池へ。

ここはA型開渠という。入り口から向かって左側には流していません。右側の池に流し込んで砂をとります。
水の入り口は馬蹄形の口で狭くすることで流れのスピードを速くさせ隧道途中で砂が沈まないようにしている。

ここにきて急に広くなるので流れがゆっくりになる。
横一列に並んだ孔の開いた清流壁に水を通すことにより流れるスピードを均一にしている。

さらにそこから歩いて広瀬川の方へと進むと北堰(昔の四ッ谷堰)が見れる。
現在は対岸に取水口があって、三居沢の水力発電へと流れていく。
取水口の向こうには郷六御殿跡が見える。


コメント (0件)

コメントする 

オンラインショッピング カートの中身を見る