青葉通りに面したところに「晩翠草堂」という建物がある。 ここは土井晩翠が晩年暮らした家で、現在は無料で中を見学することができる。 今まで入ったことはなかったが近くで用があったのと気になっていたのとで足を運んでみた。 屋敷内はさほど広くない、しかし展示してある模型を見ると裏にも建物があるらしく公開してるスペースが手前だけなようだ。
庭はある程度の広さがあり外には出られないもののゆったりとした眺めが楽しめる。 見学できる屋敷内スペースには晩翠が亡くなった当時のベッドと布団がそのまま奥の部屋に置いてあり、 その他は正直これといって展示物はあまりない。
しかし仙台の誇る偉人、もちろん会ったことはないがここに暮らしていたんだぁと思うと感慨深い。
ところで案内してくれたのは60~70代の男性の方でしたが、最初にある程度の説明をしてくれてあとはCDを流して録音の説明(2分ほど)に切り替わり、そのあとは自分でいろいろ展示物を眺めるといった感じでした。 さっと見て帰ろうとしましたが、展示してあった年表に北鍛冶町(現木町通二丁目)の質屋に生まれるとあるのをみつけました。
うちのお店(熊谷屋)は生家の真向いにあり当然、土井晩翠が生まれたところであるということは知っていました。(昔は晩翠荘という古いアパートがあったんですよ) しかしそこがもともと質屋だったとは初めて知りました。
そこで先ほどの案内してくれた方にお話を聞くといろいろな話をしてくれました。
…あそこは北鍛冶町でもともとは鍛冶屋だったのではないか、当時の屋号が鎚屋(つちや)といい、 そのうち苗字になり鎚が土に代わり土屋となり、そして土井と変わっていった。
そもそもいまでこそ「どい晩翠」と言っているが本名は「つちい」読むのだと。 ところが東北弁で訛って「つつい(筒井)さん」と聞こえたり、そのまま字面から「どい」と読まれることが多かったのである時を機に「どい」と読ませるようにしたとか。 しかも名前を変えたのは昭和9年(違う説もあるがあえて)からで生涯のほとんど終わりの方だけだったのです。
現在の晩翠草堂は見たままの広さですが、もともとはとても大きな敷地だったそうです。 隣接するビルはもとより奥州街道を超えてまでも土地はあったそうです。
北鍛冶町で質屋をしていて、ちょうど侍がお金を工面するのに刀や着物を質に入れ無ければならないという時代背景もあり質屋は古物商で潤い、事業を拡大するために大町の辺りに引っ越したそうです。 その際晩翠は現木町通小学校から立町小学校へと3年生の時に転校しました。 その後今の晩翠草堂にあった3階建の旅館を買い取りそこを住居としたそうです。
とても大きな旅館だったらしいですね、 しかしながら戦争で焼けてしまい、その際書物も全部焼けて、何も無くなり晩翠は失意のどん底にいました。 その晩翠を慰めようと、教え子や市民が有志で昭和24年に建てた家が、この「晩翠草堂」。
しかしながら戦後の区画整備でかなりの土地を削られ現在の大きさとなった。 その好意もむなしく前年の昭和23年に妻に先立たれ、亡くなるまでのたった3年間だけほぼ一人で住みそのままここで息を引き取ったという。
今まで他の人より身近に感じながらも土井晩翠=「荒城の月」、木町通小学校の校歌、それと生家が目の前ぐらいしか知りませんでした。 生家がうちの前にあったなんてどのくらいの人が知っているだろう?多分ほとんどが知らないと思う。 あそこに仙台市で碑を建てるべきですよね!と説明してくれた案内の方と同意見!! いろいろお話を聞いてへぇ~と驚くことがたくさんでした。
みなさんもお寄りの際はただ見るだけでなくお話を聞くことをおすすめします! 土井晩翠の生家のあった場所 (薬屋さんから駐車場を挟んで隣の商店までとその奥)
土井晩翠の「土井」って「どい」じゃない?!
2012/7/27
コメント (2件)
兵庫県在住の、城下町などの歴史・地理が好きな還暦男です。
晩翠草堂や立町小学校の晩翠資料室等で尋ねても、晩翠の生家の正確な場所が分からず、
別件もあり、今日、市役所の観光課へ出向くと、このブログのコピーをいただき、午後に現地と熊谷屋さんへとたどり着きました。
(御餅とお菓子、美味しかったです(^○^))
観光課には、ここに碑を建てるべきと言っておきました(^_^;)。
晩翠が、小学3年生でなぜ転校するのかも、疑問でしたが、貴殿のブログを拝読し納得できました。
ありがとうございます。
晩翠ファンさん コメントありがとうございます。観光課の方と同意見で晩翠の生家に碑を建てるべきだと思います。
現在この辺の地域のまちづくり協議会がまさに始まろうとしておりますので、そこで提言していきたいと考えています。
今後ともよろしくお願いいたします。
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