仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

タグ:木町

白松がモナカは旅館業だった

2015/11/2

青葉区木町通一丁目、仙台市立木町通小学校の裏側(西側)の通りに晩翠亭いこい荘という旅館がある。なんでもミシュランジャポンに載ったそうです。
他の人から見ればうちもそうかもしれないが、 なんでこんなところに旅館があるのかあるのか不思議で仕方がなかった。
旅館などの立地は温泉などの観光地あるという一般的なイメージ。街なかでアクセスも便利ですが特に観光地が近くにあるわけではない。(でも見るものはたくさんありますよ)
ここだけではない、仙台市内でもなんでこんなところに旅館がと思うところはよくあります。


話は変わりますが、
白松がモナカの大学病院前店が白松がモナカの第一号店と聞いています。
ではなぜなぜこんな場所に始めたのか?
店名の通りすぐ近くには東北大学の付属病院(通称:大学病院)があり、
お見舞いに行く人がそこでモナカを買って持っていくということを見込んでということは
簡単に察しがつきます。


下の写真2枚は道路拡張前の白松がモナカ大学病院前店です。
おかちゃんさんのブログよりお借りしました。


詳しく白松がモナカの社長に尋ねたところ、戦後初めての店はやはり大学病院前店(現在より北にひとつずれたところ、北四番丁大衡町線の道路拡張のため現在の位置に移動)で、
それ以前は、同じ場所で下宿屋を購入して旅館として営んでいたそうです。


実は昔は、いこい荘 の近くに森末旅館がありました。ここは森公美子さんの実家でのちにホテルニューモリスエ、そしてホテルセントキャッスルと名前を変え現在ではマンションが建っています。
その他にも本田旅館(確か小学生の頃まであったと思います) や、
大盛館などの旅館が数軒ありました。

真ん中のマンションが元森末旅館の場所
この昭和20年代~30年代の木町通商店街の地図を見るとそれぞれの位置がわかります。ちなみにいこい荘は掲載されていませんが、創業昭和39年ということなので現在の場所からみると福寿荘の後に建てられたものと思われます。
遠正文具店(赤下線)は現在、大学病院向かいの角のビル1階にあります。
大林商店(赤下線)はダイリンと読んでいわゆる10円駄菓子屋さんで、小学生の当時は大変お世話になりました。


昔は交通の便が悪いく、遠方からの患者等は時間をかけてやってきて遅い時間に着き、その晩は病院の近くで泊まり次の日朝早く病院に向かう人が多かったということです。

つまり大学病院周辺の旅館はみな、遠方からの患者等が仙台に来て次の日の朝早く診察を受けるために泊まるための施設だったのです。

いこい荘はその当時からではありませんが、大きな流れとしてその名残りと言えるのではないでしょうか。
そして今では仙台中心部へのアクセスも活かしながら丁寧で細かなサービスを提供することによりいこい荘はミシュランジャポンに載ることができたのでしょう。

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仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?続き

2013/3/4

以前「仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?」というタイトルで書きましたが、
菅克復の屋敷はもともと北三番丁にあったという。
その詳しい場所を三居沢電気百年館の館長さんに尋ねたところ後日電話で教えてくださいました。
そこは現在の青葉区支倉町三丁目、大学病院の近くの仙台市交通局のバスプールがあるところの先の角あたりだったそうです。
ほぉ、そうだったのかぁ。念のためにうちにあったゼンリンの地図(97年版)で確認したら、
なんとそこの場所に「菅節蔵」さんというお名前が!
館長さんによると以前、菅克復さんの子孫であるという方がお見えになられて現在は札幌に住んでいるとか…。
地図は97年版なので現在その場所は大きなマンションが立っています。
もしかしたらこの人が札幌に引っ越したのかなぁ。想像は膨らみます。
市民会館から交通局を通り大学病院に突き当たるこの通りは、市電が開通するまで道は通っていなかったそうです。
写真の地図を見るとその道路を作るために敷地が削られたとして、昔はもっと東西に広い敷地だったのではないでしょうか。だって、自分の屋敷内に家内工業の機織り工場を作っちゃうんですからね。

よく見ると菅アパートなんていうのもありました。もしかしてこれも関係してるのかも…
あくまで想像ですが。

 


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コメント (1件)

  1. admin より:

    菅克復さんのお孫さんがお店にいらして、菅克復の菅と管の間違いを指摘してくださいました。
    残念ながらその時私はお会いできなかったのでもしこのコメントをご覧になりましたら、ご連絡をいただくかまたお越しいただきたいと願っています。いろいろお話を聞きたいのでよろしくお願いします。

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仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?

2013/2/5

うちの息子は現在小学4年生なのですが、先日こう聞かれました。
「お父さん、菅克復っていう人知ってる?」
その名前を聞いてドキッとしました、それと同時に何とも言えない高揚感をおぼえました。

菅克復という人物は天保八年に一関・田村家の家臣の家に生まれた。その後 伊達茂村(もちむら)側近に抜擢され仙台藩士となりました。
維新後、困窮した生活をしいられていた旧藩士たちをみて、救済すべく当時注目されていた紡績業を始めた。私財をなげうって機械をを購入し自らの屋敷(北三番丁:詳細な場所は不明)で明治七年家内工業として士族の子女たちを雇った。
その後明治政府は殖産振興のため十二機の紡績機を導入し、そのうちの一機が東北に配置された。
それが、のちに北三番丁より水力を動力とするために三居沢に移転した宮城紡績会社だったのです。
ここでいくつか私なりの疑問が生じました。
1.現在の水力発電を行っている水源は広瀬川の郷六の方より長い隧道を作って水を引いていますが、当時機織りだけのために最初からそのような距離の設備工事がわざわざ行われたのか?
2.三居沢水力発電所の脇にある不動尊の裏手の大滝は水力発電の水源と関係あるのか?不動尊内には最古の石碑として寛永十一年というから時代が合わない。
3.現在使われている大きなパイプの隣に旧隧道出口と書かれたレンガ造りの穴があるが、位置がかなりおかしいのではないか。
そこで「三居沢電気百年館」に足を運び、入り口にいた係りの方(館長さん?)にダメもとで話をお伺いしたところとても親切に詳しく説明してくれました。
1.三居沢に紡績会社が移転した当時、場所は仙台市交通局川内営業所内の奥の場所だったそうです。
そして、広瀬川から引いた隧道はちょうどすぐ山の裏側でさほど距離は無かったそうです。
←こちらが当時の工場を描いた絵ですが、入り口の門の辺りにある松の木が今でも一本だけ残っているそうで、それが下の写真です。

2.よくよく地図を見たら全く違う水源でした(汗)
3.三居沢電気百年館の裏手に回ると山から駆け降りるパイプがよく見えるのですがちょうど百年館の真裏に明治三十三年当時隧道出口があり向きも現在の発電機の方向とは全く違う向きなのです。係りの方に話を聞くと先ほどの仙台市交通局の場所から規模を大きくするために移転したそうです。そしてその場所が現在の三居沢百年館がある場所。そして館内には日本で第一号となる水力発電機のレプリカが展示されています。当時の場所に置いてあるというのも何か感慨深いものがあります。
その後洪水に遭い工場は流されてしまい、電力の需要増加も伴い現在の場所に第二号を創ったそうです。
現在も現役で稼働しているなんてすごいですよね。
旧隧道

第一号機 (三吉電機製)

三居沢電気百年館

なるほど、謎は解けた!すっきり(´∀`)
菅克復は先見の明があり地域振興に尽力し、県会議員、仙台市議会議長など就任し行政にも活躍された偉人でございます。
知る人ぞ知るという人物ではありますが、仙台の偉人としてこれを機に知っていただければと思いまた仙台の誇りにしてほしいです。
またこうやっていろいろ調べてから三居沢百年館などの施設に行くと百倍楽しめますので、ぜひ参考にしていただきたい。
発電所を造るまでの経緯は…
仙台に鉄道が開通後の明治二十二年二月、料亭「挹翠館」(ゆうすいかん:のち仙台市民会館の前身となる)にて経済人たちがあつまり仙台の電気事業について話し合われた。その後すぐ東京へ赴き電気会社の調査を行い、当時の日銀総裁であった富田鐵之助の助言を求めました。しかし富田は東京でも事業は始まったばかりで不測の事態も起こりかねないので時期尚早と助言をした。
しかしながら
調査に参加したうちの一人菅克復は自分の工場だけでも電灯をともし暗くなっても働けるようにしたいと、東京で小型の発電機と電灯をなんとか購入した。そして明治二十二年六月二十八日に機械が取り付けら、七月一日に東北で初めて明かりがともされた。
あたり一面真っ暗な中 烏崎山頂から工場内までぼんやりと明かりの点がいくつも見え、当時は狐火と思われたそうです。
冒頭の話に戻りますが、
実は、ついこの2~3日前に私も「菅克復」という名前を知ったばかりだったのです。
先日三居沢の大滝を見に行ったあと気になって三居沢発電所について調べていました。
その際に出てきたのが「菅克復」という人物。
詳しく息子に聞いてみると、学校で担任の先生ではなく算数と社会に限ってさらに精通した先生に教わっているそうです。そして、そこで教わるのは教科書には書いてあるもの以外に郷土史もなのだそうで、その中で三居沢の宮城紡績会社を設立した「菅克復」について学んだようです。
「菅克復」なんて仙台の人でも知っている人はほどんどいないと言っても過言ではないと思います。菅克復氏のお孫さん、申し訳ありません。(汗)
さらには「富田鐵之助」「一力健治郎」についても教わっているそうです。
こういう郷土史を教えてくれる先生っていいですね。また息子もそういう機会に恵まれ素晴らしいと思います。

 


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コメント (1件)

  1. admin より:

    菅克復さんのお孫さんがお店にいらして、菅克復の菅と管の間違いを指摘してくださいました。
    残念ながらその時私はお会いできなかったのでもしこのコメントをご覧になりましたら、ご連絡をいただくかまたお越しいただきたいと願っています。いろいろお話を聞きたいのでよろしくお願いします。

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土井晩翠先生の作詞した校歌をいっしょに歌いましょうの会

2012/10/21

10月19日は土井晩翠の命日で青葉城跡の碑の前で立町小学校の児童らが歌ったそうです。 そして21日(日)に立町小学校にて「土井晩翠先生が作詞した校歌をいっしょに歌いましょうの会」が開かれ立町小学校の児童はもちろん木町通小学校の児童(6年生)や各高校の同窓会の有志の方達が集まり、それぞれの校歌を歌いました。 この会は元立町小学校校長の小野寺さんが発起人で、一時期教科書から「荒城の月」がなくなるかもという時に一生懸命に働きかけ、先生の没後50年ということもあり6年前からこの会が始まったそうです。 ですから今回は第6回、 今までやっていたのは正直知りませんでした。 仙台が誇る偉人、土井晩翠がもっと仙台人、全国の人たちに浸透するためにはこういう会は大切にしたいですね。 この会は一般の人も見ることができるので、時間のある方は一度見に行ってみてはどうでしょう。 来年も同じような時期に開催されると思います。 「土井晩翠先生が作詞した校歌をいっしょに歌いましょうの会」で検索すると何かしらヒットしますよ。 土井晩翠先生は前にも述べたように熊谷屋の向かいに家がありそこから木町通小学校に3年生まで通っていました。 その後父親の商いである質屋の事業拡大にともない大町へ引越し現在の晩翠亭あたりに住み立町小学校へ3年生の時に転校しました。 そして両校とも校歌は土井晩翠先生に作詞していただきました。 ちなみに立町小学校には土井晩翠先生の資料室があるそうです。 (残念ながら見ることはできませんでした) 余談ですが、 木町通小学校卒の方にはわかっていただけると思いますが、わが木町小は卒業してほとんどの児童が仙台市立第二中学校へ行き最初の遠足か何かの際バスの中で各小学校の校歌を歌わされます。 そして木町小の校歌は必ず他小学校の友達に笑われてしまうのです。 「ラララララーン、ラララララーン、 そのあとついて勉めましょう~、 そーの あーと つーいて つーとめましょーおっ! ラララララーン、ラララララーン♫」 (笑) 親戚の叔母に聞いたところ「私の時もそうだったわぁ(恥)」 と、各世代同じ経験をしていたのですね(笑) この日最初の小野寺さんの挨拶の中に 「各校の校歌の中には 壮大なイメージを込めた校歌や、 お酒を飲みながら、筆がすべってしまった校歌などもあるでしょう…」 というお言葉が…。 木町通小学校の校歌の作詞を依頼する際、どぶろく2升でお願いしたという話を聞いたことがあります。 また、 ラララララーンは作曲した福井文彦先生が付け足したもので、 詩が短いのでもう少し長くしてくれと土井先生にお願いしたところ断られたので仕方がなく付け足しという逸話も聞いたことがあります。 とにもかくにもこのようなアップテンポな校歌は他にはないでしょう。 ラララララーン、ラララララーン♫ ←ポチッと押してください!
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コメント (1件)

  1. 佐藤 崇 より:

    校歌を検索していて,このブログにたどり着きました。
    熊谷屋,懐かしいです。
    木町通小学校の校歌のエピソード,楽しく読ませていただきました。
    私は,昭和60年4月から昭和62年の3月まで,木町通小に勤務していました。家内とは,木町通小学校で出会い,今も何とか仲良くやっています。(旧姓 川村 由美です。)
    私が知っている校歌で,校歌の中にランラン・・・が入っているのは,木町通小学校と宮城教育大学附属小学校だけかなと思います。私は,両校に勤務していますので,ランラン・・・に縁があるようです。

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木町通二丁目について調べてみました

2012/6/29

熊谷屋が所在する場所、木町通二丁目。
店の前の通りは奥州街道、旧町名を北鍛冶町という。
そしてここの近辺には木町という地名と木町通一丁目という地名があります。
二丁目があるのだから一丁目があるのは至極当然、
しかしながら「通」という名が付いているのに二つの地域を貫いている通りは無い、
それが昔からなんか腑に落ちない感じが私にはありました。
地図上で二つの区域を確認すると国道48号線(作並街道)を境に南北にブロックが分かれ
さらに東西に少しずれているのがわかります。

そもそも通とはそこへ通ずる道という意であり、この場合「木町」へ通ずる道なのである。
木町通はもともとあった地名で大町二丁目あたりから北山の覚範寺へ至る通りを「木町通」と呼んでた、
そして「木町」は立町から定禅寺通櫓丁までの間を呼んでいた。
きちんとした名称は材木町で、そこは幕府より木材専売の特許を与えられていた、その後南材木町、北材木町(定禅寺通櫓丁裏)ができ本材木町という名に変遷した。

※現在でこそ大学病院から北山へ伸びる道路はトンネルへと続くが昔は手前で斜めに折れ撹範寺へと突き当たっていた。
これらのことから昔の木町通は現在の一丁目の真ん中寄りを縦断していることから、
二丁目に関しては縦断ではなく端が木町通に接しているということで地名が付けられたようだ。
(もちろん当時他にも新地名の候補があったが)
そして残る現在の「木町」という地名は単に木町通上にある地域だからその名をとっただけでそこがもともとの木町すなわち材木町とは関係ないのだという。


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コメント (2件)

  1. 菅原稔郎 より:

    本日、野蒜築港のことを調べていたら、2014/12/1付け本ブログに辿り着き、
    木町の植木氏(知人です)の祖先のお話や、さらには木町の地名の由来の謎が
    解けました。
    藩政時代、足軽屋敷が多かったあの界隈がなぜ「木町」なのか以前から疑問に
    感じておりました、お陰様でスッキリしました。ありがとうございます。

    1. admin より:

      コメントありがとうございます。疑問がすっきりしてよかったですね。ブログを書いた甲斐があります。

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