3年前から柏木市民センターではへくり沢について講座が行われてきました。
最初は3〜4回に分けて講師を呼んで講座がありまして、私はへくり沢に興味があったのですべての講座に参加しました。
【へくり沢おさらい】
仙台城下町の北西に位置する深い沢、現在の八幡町あたり。
そこにかかる橋を土橋といい、そこに通ずる道を土橋通りと呼んだ。
へくり沢はどこなのか、土橋はどこなのか、なぜ土橋通りと呼ぶのか、幾つかの疑問を持っていたところにちょうどこの講座があったので参加しました。
その後講座を受けた人の中から有志で昭和33年の仙台市の地形模型を製作し、翌年には今野さんの描いた絵を参考に八幡町界隈のジオラマを作製。いずれもへくり沢の地形が詳しくわかるものでした。
この事業は4年間と決まっているそうで、今年がラストイヤー。その集大成で完成直後まずは一般の方を迎え事業報告会、そして翌年の柏木市民センター祭りで来場者への披露及び説明、
さらに実際にへくり沢跡を受講者たちが今までの知識を元に市民(まち歩き参加者を募り)に説明しながら歩く事業を行いました。
すでに去年の11月に2度行っており、今回は3度目。
今回のスタッフメンバーは柏木市民センター小野館長と山内さん、有志メンバーより私の他、北波さん、三品さん、鹿戸さん、付き添いで青葉区中央市民センターのお二人。その他、春日神社待機組が今野さんと皆川さんです。
今回6月4日に行われ、この日はとても天気が良く、良すぎて日焼けしてしまうほどでした。
前回の集合場所は柏木市民センターでしたが今回は知事公館です。
ここはすぐ下に新坂という坂があります。新坂というからには新しい坂です。そしてそこへ向かう道を新坂通りと呼びます。
現在の新坂通りはそこから大学病院を越して北側に位置します。そこは新坂町がありますがそこから南には大学病院に突き当たります。
しかし本来なら大学病院ができる前は道があり、さきほどの新坂まで繋がっていたのです。
ちなみに大学病院ができて寸断された時は西側脇に新新坂通りが作られました。
新坂は新しい坂と申しましたが、これはへくり沢を渡るために元禄年間頃に新しく作られた坂という意味です。
館長さんの挨拶と北波さんの解説。
まずは15人ほど参加者が集まり2班に分かれて出発しました。
最初は知事公館よりすぐ下にある東北で最古の板碑、澱橋不動尊。
それについて一通り説明が終わると何やら隣の民家に移動してここには大砲の弾があると説明してくれました。
説明してくれたのはそこに住む方でした。何やら集まっているのを見てせっかくだからと庭の敷地に入れていただきました。他人の家なので本当は入っていけないのですがご主人自ら説明してもらい、思わぬ偶然にラッキーでした。この砲弾はロシア戦争の時のものらしいです。
そこからへくり沢の河口にあたる地域を歩きました、ここは暗渠で現在、住宅地になっています。ちょうど尚絅女学院の裏の崖です。
上の写真は下の写真の住宅の真ん中を通る道路を歩いているところです。
とても深い崖になっていますが、普通河口でしたら浅く広がりをみせています。しかしその昔へくり沢と広瀬川は平行して流れていて、流れの速い広瀬川にその一部を取られてしまったのです。いわゆる河川争奪で途中からもぎ取られたため本来の河口部分が無くなり深い沢からいきなり広瀬川に流れるような形になったのです。
集落を抜けると壁にぶち当たります、この壁こそが土橋なのです。よく見るとジグザグにつたって上に登る道があります。国道48号戦から尚絅女学院へ向かう途中両側を見ると両側は深い崖のようになっています。つまり沢を横切るように道が走っているのです。
土橋に上がってから疱瘡神を見学。
これは一見何でもないような石ですが、ここを工事した時に掘り起こされ、その後、実はたいへん古いものだと判明しこの場所に祀られたそうです。
我々がここから移動しようとした際にここの町内会長さんが声をかけてきて疱瘡神について当時の事を話してくれました。掘り起こされ時は単なる石と思われ捨てられたのですが後から貴重な歴史的石だということがわかって一生懸命探したそうです。誰も見向きもしない石を一生懸命見ている人達がいたので声をかけたそうです。
当時の話を当事者から聞くのはとても貴重でした。
土橋の反対側に周り、急な斜面を下りて行きました。ここもへくり沢の深い崖です。
その昔、戦前ここには旧制ニ高のアイスホッケーのリンクがあったそうです。
当時リンクを管理していた庄子さんのご子息がそこに住んでいてお話を聞くことができました。
現在は建物が建っていますがそこにリンクがありそこに張った水はへくり沢の水ではなくもともとは四谷用水の水だったのだそうです。四谷用水とへくり沢が交差する春日神社の掛樋から12月の5日間朝の8時から夕方の5時までへくり沢へと解放したのです。そしてリンク使用中、へくり沢はリンクの下を流れていたらしいです。
なぜここにリンクを作ったか?ここはスペースがあり深い沢で日陰なので氷がなかなか溶けにくいことが理由にあげられます。
大きさは30m×60m、これらのことは尚歯会の文献に残っているそうです。
このあとへくり沢の暗渠に沿って遡り石切橋まで移動しました。
ここまでくるとへくり沢はある程度細く浅く、渡りやすくなりこの橋を通って昔の人は西側と東側の往来をしていました。
逆に言えばここしか橋が渡せず、中島丁の侍もみな遠回りをしてここを通ることになります。
ここは昔の欄干の名残があります。
春日神社に移動して待機していた今野さんが説明をしてくださいました。
社殿の中に掛けられた今野さんが子供の頃の昭和15年頃の記憶をもとに本人の描いた八幡小学校界隈の絵図を見ながら、説明を受けました。質問も多く出てなかなか終わらなかったようです。
春日神社の社殿より参道入り口の鳥居までいくつか段差があり、その途中を四谷用水が横切っています。神社より東へ30mほど行くと昔四谷用水の水を使って洗い物をしていた洗い場跡があります。
今回はへくり沢がメインなのでいったん戻り、いわゆる赤道(あかみち)となった暗渠を辿ります。この赤道は春日神社脇の四谷用水と交差するところから国見小学校あたりまで続く遊歩道になっています。
交差の場所はあの「プラタモリ」でタモリさんも訪れたところ。
赤道をしばらく進み、道は更に続くのですがタコ公園のところで右折して土橋通りに出て柏木市民センターへと向かいました。
市民センターに着いて総括をしたところで解散。
コメント (2件)
未来展望を観ました。鮫の練り切りに惚れました。形良し、色合い良し。特に、水色が、鮮やかで、爽やかで、とても素敵です。そして、鮫の生命力がこもっていて食べるとうんと元気が出そう、ですね。通販があれば、一年中注文してしまうでしょう。
飯岡様
ありがとうございます。
サメの表情をあの中に表現するのに苦労しました。その表情の中に恐さもありかわいさもあり、見る人によっていろいろな見方をしてもらえればと思います。
残念ながら通販は行っておりませんので、本店のみの販売になります。
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