4月22日に国見ヶ丘にある弁財天でお祭りがあるということで、
普段閉まっているお堂の中が見れるかもと思い行ってみました。
時間の都合上、朝早い時間に訪れたところ
幸いにもすでに祭りの準備は整っておりお堂も御開帳されていました。
中には綺麗な観音様とその両隣には歴代の僧侶のリアルな像が2体安置されていました。
ここは仙台市の有形文化財に指定されており、臨済院敷地の奥は公園として整備されています。その中には歴代僧侶のお墓もあります。
立看板内容によると
「仙台市指定有形文化財(昭和62年9月11日指定)
臨済院は、元禄14年(1701)に仙台藩四代藩主伊達綱村により開基された黄檗宗寺院である。この弁財天堂は、三間四方の宝形造で頂上に露盤、伏鉢、宝珠を載せ、向拝部には虹梁など江戸中期の様式的特徴が認められる素木造の簡素な建物である。堂内には、
彩色の弁財天座像を安置している。
かつては大寺院であったが、現在はこの堂のみが残り、茅葺であった屋根を昭和63年の解体修理工事の際に銅板葺とした。解体時に屋根裏から「宝永」と記された棟札とみられるものが発見されたことから、建築年代は宝永年間(1704-1711)と考えられる。
周辺は、歴史公園臨済院公園として整備されている。
平成11年2月 仙台市教育委員会」
黄檗宗に傾倒した第4代仙台藩主伊達綱村公が元禄14年に角五郎丁に作らせたのが始まりで、その後第5代藩主伊達吉村公により正徳5年に吉成へ移されたそうです。
吉成という地名がいつからあったのか、ここの国見ヶ丘のことを指しているのかはわかりませんが。
明治に入り廃仏毀釈でそれまで寺領と藩の保護を受けてきた臨済院は檀家を持たないため廃寺となってしまいました。
その後、弁財天堂のみが残り地元の人達に守られてきました。
そしてお祭りは毎年4月22日に行われているそうです。
なぜ4月22日にお祭りかと地元の人に尋ねたら由来はわからないがずっと昔から曜日にかかわらず決まってその日に行われてきたそうです。
弁財天はもともと弁才天だったのが財と音が似ていたことから財宝神として現在のように弁財天と書かれるようになったとか。
弁財天堂の周りには小さなお堀のようになっており水が張っています。また裏側には小さな池があります。
水は赤く鉄が錆びたような色です。
実は七北田川に合流し海に流れている梅田川の源流がここなのです。
北仙台駅の北側の堤町は昔堤(池)がありここから採れる土を使い堤焼を作っていました。
赤茶けた色はこれと共通しているのではないかと思います。
また、中山のうどう沼公園の奥の湿地帯も同じよな赤い土、赤い水なので直接川で流されて下流に行ったのではなく同じ土の層なのでしょう。
ちなみに私なりに弁財天より梅田川の開渠となっているところまでどのようになっているのか辿ってみました。
あくまでも推測ですが。
【写真奥が弁財天】
そのまま手前に進むとサンクスの脇に出る(傾斜的にも妥当なのかなと)
そこからさらに道路を横断して向かいのクリーニング店の脇を進む
【この下を流れているのかと思わせるマンホール】
そして福祉大の敷地へ入る
と思いましたが、やはり国見ケ丘2号緑地を経由して梅田川へ流れるのが順当なのか、
分水嶺は実際歩いてみないとわからない。
コメント (2件)
この記事を見つけて感動しました。
時折、巳の日に参拝してて、案内文にある「彩色の」を目にしてからは、いつかお目にかかりたいと、御開帳の日があれば知りたいといました。
1度、いらしたご近所らしき方に尋ねたときは祭りが近くなるとのぼりが立つとのお話で機会を探っていましたが、今年は既に過ぎた模様。
でも、画像をあげてくださって、願いがかないました。
お祭りの日もわかることができました。
お手水場には小さい竹ざるがあり、前はなかったので水面の汚れとりと思いましたが、後から違うのに気づきました。
手に取って銭洗いをする者に便利です。
ご厚意で置いてくださって地域の方々のお心を感じられる場です。
余談ですが、弁財天様は近場で探した事があって、新坂通りの交差点角の荘厳寺を訪れた事があります。本堂後ろにお堂がありました。
梅田川は貝ヶ森小学校近くの橋のところが人の手が入らずにあり一番好きな眺めです。
山手町の辺りでは流れに沿って遊歩道があり、歩いてると飛石がありました。
七十七銀行の近くでは魚が泳いでたことがありました。
水源を辿ると弁財天堂から先がわからなくてここなのかなで終わってました。
やはりそうでしたか。
バッケさん
御開帳の日は私もたまたまネットで見つけて、当日を待って足を運びました。
梅田川は北山トンネルから出たところの橋の下には今も大きな鯉が泳いでいますよ。