仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

カテゴリ:歴史

ひっそりと佇む弁財天と梅田川の源流

2016/6/3

4月22日に国見ヶ丘にある弁財天でお祭りがあるということで、
普段閉まっているお堂の中が見れるかもと思い行ってみました。
時間の都合上、朝早い時間に訪れたところ
幸いにもすでに祭りの準備は整っておりお堂も御開帳されていました。

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中には綺麗な観音様とその両隣には歴代の僧侶のリアルな像が2体安置されていました。

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ここは仙台市の有形文化財に指定されており、臨済院敷地の奥は公園として整備されています。その中には歴代僧侶のお墓もあります。

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立看板内容によると

「仙台市指定有形文化財(昭和62年9月11日指定)
臨済院は、元禄14年(1701)に仙台藩四代藩主伊達綱村により開基された黄檗宗寺院である。この弁財天堂は、三間四方の宝形造で頂上に露盤、伏鉢、宝珠を載せ、向拝部には虹梁など江戸中期の様式的特徴が認められる素木造の簡素な建物である。堂内には、
彩色の弁財天座像を安置している。
かつては大寺院であったが、現在はこの堂のみが残り、茅葺であった屋根を昭和63年の解体修理工事の際に銅板葺とした。解体時に屋根裏から「宝永」と記された棟札とみられるものが発見されたことから、建築年代は宝永年間(1704-1711)と考えられる。
周辺は、歴史公園臨済院公園として整備されている。
平成11年2月 仙台市教育委員会」

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黄檗宗に傾倒した第4代仙台藩主伊達綱村公が元禄14年に角五郎丁に作らせたのが始まりで、その後第5代藩主伊達吉村公により正徳5年に吉成へ移されたそうです。
吉成という地名がいつからあったのか、ここの国見ヶ丘のことを指しているのかはわかりませんが。
明治に入り廃仏毀釈でそれまで寺領と藩の保護を受けてきた臨済院は檀家を持たないため廃寺となってしまいました。

その後、弁財天堂のみが残り地元の人達に守られてきました。

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そしてお祭りは毎年4月22日に行われているそうです。
なぜ4月22日にお祭りかと地元の人に尋ねたら由来はわからないがずっと昔から曜日にかかわらず決まってその日に行われてきたそうです。

弁財天はもともと弁才天だったのが財と音が似ていたことから財宝神として現在のように弁財天と書かれるようになったとか。



弁財天堂の周りには小さなお堀のようになっており水が張っています。また裏側には小さな池があります。
水は赤く鉄が錆びたような色です。

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実は七北田川に合流し海に流れている梅田川の源流がここなのです。
北仙台駅の北側の堤町は昔堤(池)がありここから採れる土を使い堤焼を作っていました。
赤茶けた色はこれと共通しているのではないかと思います。
また、中山のうどう沼公園の奥の湿地帯も同じよな赤い土、赤い水なので直接川で流されて下流に行ったのではなく同じ土の層なのでしょう。

ちなみに私なりに弁財天より梅田川の開渠となっているところまでどのようになっているのか辿ってみました。
あくまでも推測ですが。
【写真奥が弁財天】

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そのまま手前に進むとサンクスの脇に出る(傾斜的にも妥当なのかなと)

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そこからさらに道路を横断して向かいのクリーニング店の脇を進む

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【この下を流れているのかと思わせるマンホール】

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そして福祉大の敷地へ入る

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と思いましたが、やはり国見ケ丘2号緑地を経由して梅田川へ流れるのが順当なのか、
分水嶺は実際歩いてみないとわからない。

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コメント (2件)

  1. バッケ より:

    この記事を見つけて感動しました。
    時折、巳の日に参拝してて、案内文にある「彩色の」を目にしてからは、いつかお目にかかりたいと、御開帳の日があれば知りたいといました。
    1度、いらしたご近所らしき方に尋ねたときは祭りが近くなるとのぼりが立つとのお話で機会を探っていましたが、今年は既に過ぎた模様。
    でも、画像をあげてくださって、願いがかないました。
    お祭りの日もわかることができました。

    お手水場には小さい竹ざるがあり、前はなかったので水面の汚れとりと思いましたが、後から違うのに気づきました。
    手に取って銭洗いをする者に便利です。
    ご厚意で置いてくださって地域の方々のお心を感じられる場です。

    余談ですが、弁財天様は近場で探した事があって、新坂通りの交差点角の荘厳寺を訪れた事があります。本堂後ろにお堂がありました。

    梅田川は貝ヶ森小学校近くの橋のところが人の手が入らずにあり一番好きな眺めです。
    山手町の辺りでは流れに沿って遊歩道があり、歩いてると飛石がありました。
    七十七銀行の近くでは魚が泳いでたことがありました。
    水源を辿ると弁財天堂から先がわからなくてここなのかなで終わってました。
    やはりそうでしたか。

    1. admin より:

      バッケさん
      御開帳の日は私もたまたまネットで見つけて、当日を待って足を運びました。

      梅田川は北山トンネルから出たところの橋の下には今も大きな鯉が泳いでいますよ。

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さる(申)年ということで

2016/1/1

あけましておめでとうございます。
今年の干支は申年です。
新年早々こんな話からで申し訳ありませんが、「鬼門」というものをご存知でしょうか。

鬼門とは方角でいうと北東、その方角から鬼が入ってくると言われています。この言葉は中国から伝わり風水から来ていると言われています。また中国の北東から異民族が攻めてくるのを鬼になぞらえたとも言われています。
日本に伝わり独自の陰陽道と合わさり現在の「鬼門」となったようです。

古来、北東の方角の鬼門には守護するためのものを配置します。お城でしたらそこから鬼門の方角に寺院を配置します。仙台城に対する定禅寺や東昌寺や東照宮(お寺ではありませんが)などがそれに当たります。城下町が広がるにつれ鬼門の位置も広がったのでしょう。
東昌寺のマルミガヤの木は鬼門除けに政宗公が植えたとされますが樹齢500年なので真相は定かではありません。

 

 

先ほど述べた鬼門の方角、北東は十二支でいうところの丑寅の方角になります。鬼門と反対の方角の南西は未申
となり、裏鬼門と呼ばれます。そこで鬼門除けに猿などの置物を置くことがあります。

長々と鬼門について述べましたが、ここでやっと今年の干支の猿が出てきました。


仙台の国分町の定禅寺通の北側に「佐正」という仏壇屋さんがあります。
よく見るとその建物の2階部分に猿の彫刻が鎮座しています。
実は先ほど述べた鬼門の方角に猿の彫刻を置いて鎮守しているのです。
実はこれには経緯がありまして、以前ブログに書きましたが、春日町の春日神社の前の通りが本来現在より南よりだったのが戦後の区画整理で北にずれたため、国分町にぶつかるところも道路が「佐正」さんの南側から北側に移りました。
昔の道路だったところの痕跡は残っていませんが、「佐正」さんの隣の建物の位置か、もしくは「佐正」さんの建物の一部になってしまったのか。
とにかく建物の北側が道路に面して露出してしまったのです。

そこで猿の彫刻を置くことによって鬼門を守っているのだそうです。
建物の形状が猿を置くためにたまたま一部凹ましたのか、(鬼の)角(つの)を取ると災いが来ないという謂れもあるみたいです。

鬼門除けに置物を置くというのは以前ブログで兵藤飴屋さんの時にもありました。
兵藤飴屋さんの建物は現在はもうありませんが、「佐正」さんの前を通ったらちょっとだけ上を見上げてみてください。

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良縁を求め遥々と~ ” まぼろしの島田飴”

2015/12/7

黒川郡大和町吉岡に島田飴というものあり。祭でこれを手に入れることができたら良縁に恵まれるという縁起物。

宮床の北側に昔、宿場町で栄えた吉岡という町があります。そこにある吉岡八幡神社での毎年12月14日に行われるお祭りで花嫁行列があり、島田飴という変わった形の飴が売られます。
その島田飴を買い求めようと前日の夜8時から並び始め夜中には50人にもなるほど各地から人々がやってきます。
毎年売切れ、今年は2400個作るそうです。

さらに今年の12月14日お祭り当日はNHKの「あさイチ」が生中継で入るそうです。

島田飴の形は花嫁の髷(島田髷)をかたどったもので、縁結びの縁起物として喜ばれています。その大きさはハンドボールくらいの大きさとでもいいましょうか。



先日11月28日に河北新報でもちょうどとりあげられましたが、
今回その島田飴の製造過程を見学させていただきました。

ボランティアの方々で作られているということで、それらを仕切って切り盛りしているのが島田飴祭実行委員長の児玉金兵衛さんです。
島田飴はもともと「白酒屋」という菓子屋で作られていましたが菓子業やめてその歴史が終わりかけた時、児玉さんがその火を絶やすものかと「白酒屋」の職人さんに特別に弟子入りをして工場の一角を借りて作ってきました。その後も場所を変え職人さんに手伝ってもらいながらも飴作りを続けて来ました。
そしてその職人さんも高齢になり一緒に作ることができなくなり、いよいよ児玉さんへの肩の荷が重くなります。

児玉さんの自宅、児玉金兵衛商店は宿場町時代から酒屋を営む歴史のあるお店です。その蔵は平成27年NHKのドラマ『独眼竜花嫁道中』の舞台にもなりました。


朝早めに飴の仕込みを済ませ10時頃からボランティアのお手伝いの方々が来て飴作りの始まりです。

まずは髷の小さなパーツを形作っていきます。

次に土台となる大きな部分を作ります。型となる石に漆を塗ったものを使用して一つ一つ手作業で形作ります。
形ができたものは同じ型に移し替え冷まします。整形する際、飴の温度が熱くてもだれてしまい、冷め過ぎても伸びにくく難しいもので、力のいる作業です。飴に関わらず菓子作りは作業しやすい硬さでは製品としてうまくないのです。



昔使っていた型は木製です。



次に冷めた土台に赤い飴を巻きつけます。これも温度が大切です。温かすぎると内側の接着部分が剥がれてきます。


続いて赤い飴でもう一つパーツを作ります。これができたところでお昼休憩。




午後からは仕上げに入ります。午前中に作った二つのパーツを本体に取り付けます。この時も赤い飴を上から取り付けて接着剤の代わりをします。またこの赤い飴の温度が高すぎると他のパーツが垂れてしまいます。
赤の角のような部分が上に向かい、白い部分が左右に水平に伸びる、これが理想的な形です。

これまでの作業の中で見ていて一番苦労するところだと思いました。
みなさん一つ一つ思いを込めて真剣な表情で作業しています。

一通り出来上がったら最後はラッピングと箱詰めです。せっかく出来てもここで終わらせては飴が湿気ってしまいます。

最後に吉岡八幡神社に寄って行きました。隣には古い武道館があり現役で使用されているようでした。
みなさん良縁に恵まれるといいですね。


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仙台北法人会青年部会のメンバーが四ッ谷用水について学びました

2015/11/27

経営者の集まりの団体という仙台北法人会青年部会の事業で「四ッ谷用水を辿る会」を実施ました。 青年部会は特に30〜40代のメンバーが多い中で仙台郷土の歴史に興味はあれど触れることはなかなかないので今回の事業はとてもいい機会だったのではないでしょうか。 講師に「仙台・水の文化史研究会」の会長を務める柴田さんを始め3人の方にお願いしました、我々メンバーは二つの班に分かれて説明をしていただきながら四ッ谷用水の暗渠を歩きました。
スタートは大崎八幡宮のちょうど二之鳥居をくぐってすぐの太鼓橋からで、ゴールは北六番丁の茶室「六幽庵」までの四ッ谷用水の暗渠を辿りました。 太鼓橋の下も四ッ谷用水がが流れています。 私は以前にも何度か四ッ谷用水を歩き、ある程度知っているつもりでしたが、青年部会メンバーと一緒に歩くことができて、また新鮮でした。
フェンスの向こう側が四ッ谷用水です。現在は仙塩工業用水道導水路として使われています。
下の写真の歩いている左側が暗渠になります。
正面の緑の柵の左側の歩道が暗渠です。不自然な道幅になっています。
正面の建物はブラタモリにも出たところです。
上の写真の正面のアパートの向こう側から下の道に降りました。 ここ石切町にある瀬田谷不動尊は石切職人の神社でここで職人たちが踊った踊りが雀踊りの由来となったそうです。
石切町はその昔仙台城の石垣を造った石垣衆の屋敷があったところで、今も小梨石材店などがあります。
ちなみに写真の小梨石材店は盛岡から来たそうで、比較的新しい石屋さんなのだそうです。(もちろんかなり古くからあります)
築城当時から残っている石材店は48号線沿いにある黒田石材店だそうです。
春日神社の参道にある昭和15年ころ当時を思い出して近所に住む今野氏が描いたこの付近の絵です。 これをもとにジオラマかした模型が柏木市民センターに展示されていますので興味のある方はぜひご覧ください。
この先の春日神社の前を四ッ谷用水が横切っています。
上の写真の鳥居をくぐり階段を上ると境内との境目に四ッ谷用水が流れていて、その暗渠の上を歩くことができます。これを東に少し移動したのが下の写真。
これが四ッ谷用水へ降りる階段跡になります。住居の土地から四ッ谷用水までの高さが少し伺えます。ここで洗い物をしたのでしょうか?
春日神社から階段跡の途中に南に向かう第一支流跡がありました。この塀の向こうの直線的な通路がそうです。
土橋通に第二支流がちょうど歩道のあたりに流れていました。
写真は土橋通に面する宮城県看護協会で、ここがその昔伊達綱村公のお飼鳥屋敷跡でした。最近まで当時の松が現存していましたが今は病気で切られ切株のみがあります。(グーグルマップのストリートビューでさかのぼると松の木が確認できます。https://goo.gl/VZucW4
ここから東へ向かい北六番丁を歩くわけですが、四ッ谷用水はまだ道路の少し上を流れています。 下の写真の奥に見えるのは林宅寺へ用水を渡る石橋です。この写真を撮った辺りが(北六番丁の)通りの高さのピークでそれを過ぎたところ(となりの建物)で北六番丁通りへと降りてきます。
林宅寺となりの建物前の部分を通り道路へと合流します。
ここが合流地点。
ここは支倉堀と言って東北大学構内にあり、一部保存されています。四ッ谷用水はだいたい南側の仙台中心部へと支流から流れていくのですが、ここは珍しく北側へと流れていきます。
最後六幽庵に到着して、せっかくなので庭園を一周見て回りました。 六幽庵は仙台市の茶室ですがさまざまな用途で借りることができます。
もともと仙台市内の建設会社の橋本店から仙台市に旧橋本邸離座敷を「茂ケ崎荘」とともに寄贈されたもので、昭和33年(橋本店ホームページより)仙台市立第二中学校の北側の仙台市長の官舎脇に移築されました。
しかしながら残念なことにさほど使われることなく建物も朽ちて、また官舎に市長も住むことがなくなってしまったので平成に入り解体されたそうです。 そして平成3年に新しく生まれ変わって市民の憩いの場として建てられました。仙台市管理のもと市民に貸し出しがなされましたが、これもまた残念ながら存在があまり知られていないために十分に活用されていなかったようです。 そこで最近になり第3木曜日を一般無料公開日として利用を広めるよう力を入れています。 街なかにひっそりと佇む空間として心が落ち着きます。ぜひ足を運んでみてください。
お抹茶と菓子をいただき一息ついたところで柴田さんの貴重なご講話をみんなで聞きました。
立礼室(りゅうれいしつ)という外履きを履いたまま入れる部屋で行いました。
参加したメンバーは初めての体験でとても満足していたようです。
これからは街を歩いていても見る場所がきっと違ってくると思います。
最後にご協力いただいた「仙台・水の文化史研究会」の皆様大変ありがとうございました。 感謝申し上げます。

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白松がモナカは旅館業だった

2015/11/2

青葉区木町通一丁目、仙台市立木町通小学校の裏側(西側)の通りに晩翠亭いこい荘という旅館がある。なんでもミシュランジャポンに載ったそうです。
他の人から見ればうちもそうかもしれないが、 なんでこんなところに旅館があるのかあるのか不思議で仕方がなかった。
旅館などの立地は温泉などの観光地あるという一般的なイメージ。街なかでアクセスも便利ですが特に観光地が近くにあるわけではない。(でも見るものはたくさんありますよ)
ここだけではない、仙台市内でもなんでこんなところに旅館がと思うところはよくあります。


話は変わりますが、
白松がモナカの大学病院前店が白松がモナカの第一号店と聞いています。
ではなぜなぜこんな場所に始めたのか?
店名の通りすぐ近くには東北大学の付属病院(通称:大学病院)があり、
お見舞いに行く人がそこでモナカを買って持っていくということを見込んでということは
簡単に察しがつきます。


下の写真2枚は道路拡張前の白松がモナカ大学病院前店です。
おかちゃんさんのブログよりお借りしました。


詳しく白松がモナカの社長に尋ねたところ、戦後初めての店はやはり大学病院前店(現在より北にひとつずれたところ、北四番丁大衡町線の道路拡張のため現在の位置に移動)で、
それ以前は、同じ場所で下宿屋を購入して旅館として営んでいたそうです。


実は昔は、いこい荘 の近くに森末旅館がありました。ここは森公美子さんの実家でのちにホテルニューモリスエ、そしてホテルセントキャッスルと名前を変え現在ではマンションが建っています。
その他にも本田旅館(確か小学生の頃まであったと思います) や、
大盛館などの旅館が数軒ありました。

真ん中のマンションが元森末旅館の場所
この昭和20年代~30年代の木町通商店街の地図を見るとそれぞれの位置がわかります。ちなみにいこい荘は掲載されていませんが、創業昭和39年ということなので現在の場所からみると福寿荘の後に建てられたものと思われます。
遠正文具店(赤下線)は現在、大学病院向かいの角のビル1階にあります。
大林商店(赤下線)はダイリンと読んでいわゆる10円駄菓子屋さんで、小学生の当時は大変お世話になりました。


昔は交通の便が悪いく、遠方からの患者等は時間をかけてやってきて遅い時間に着き、その晩は病院の近くで泊まり次の日朝早く病院に向かう人が多かったということです。

つまり大学病院周辺の旅館はみな、遠方からの患者等が仙台に来て次の日の朝早く診察を受けるために泊まるための施設だったのです。

いこい荘はその当時からではありませんが、大きな流れとしてその名残りと言えるのではないでしょうか。
そして今では仙台中心部へのアクセスも活かしながら丁寧で細かなサービスを提供することによりいこい荘はミシュランジャポンに載ることができたのでしょう。

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柏木ふれあいまつりでへくり沢の研究発表

2015/10/10

柏木市民センターで「柏木ふれあいまつり」が10月4日に開催され、外では屋台で飲食ができ、体育館ではステージで踊りや中学生の琴の演奏などがありました。
また館内では各サークルの発表に混じり、へくり沢の地形模型とジオラマも展示されました。










柏木市民センターは元仙台高校跡地にある市民センターです。体育館は街の中ではけっこう広いのではないでしょうか。会議室も十分な広さがあり、そこでへくり沢を中心とした昭和33年の地図をもとに作成した地形模型と八幡小学校界隈とへくり沢の昭和12年ころのジオラマ模型を展示しました。







地形模型は2014年の2月から有志8名ほどで半年かけて作ったものです。厚さ3mmのスチレンボードに昭和33の仙台の地図を写したものを数十枚用意し地道にカッターで切り、重ねていったものです。これでより立体的に地図を見ることができ、へくり沢の崖の深さを目で確認することができます。

ジオラマ模型はさらに対象地域をクローズアップし八幡町の春日神社入り口にある今野氏の昭和12年ころの記憶をもとに描いた絵を参考に作成しました。模型は単に地形ばかりでなく当時の建物により近づけて作りました。また田んぼや畑、その他の木々も記憶をもとに細かく再現いたしました。
当時を知る人にとってこの模型はとても懐かしいものなったでしょう。


このジオラマは地形模型完成後に着手し、これも半年くらいかかり2015年の春に完成しました。最初市電は複線で作製したのですが、この年はまだ単線だったとの意見から複線から単線へ付け替えたりして細かいところまでこだわっています。

作製に関わった受講生の我々は素人ながらに今まで学んできたことを活かして来場者に解説・説明をしました。

熊谷屋ブログも参考として並べさせていただきました。




こちらは蒲生の地形模型で宮城野区中央市民センターのみなさんが作成したものです。 




我々は単にこれらのものを作ってきただけではなく、それの前には3回の講義と1回の現調をしてへくり沢について学び調べてきました。
講師の方のお話だけではなく、今野氏の昔の記憶や受講生メンバーで地元の方の記憶の話や地質に詳しい先生などの話も交えてとても貴重な事柄を知ることができました。これは講座に参加したり本で調べたりするだけでは知り得ない貴重な情報でした。 


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跡付丁と跡付丁公園  春日神社には昔 参道があった

2015/7/10

春日町の裏通り、法務局の裏辺りに小さな公園があります。いつもなにげなく通っていましたがその名前は跡付丁公園というそうです。



近くの辻票に跡付丁/北材木町とあったのでその跡付丁から名前がきているのだろう。



木町通一丁目の通りに東西に交差する道の角に辻票が建っていたのでその東西の道が跡付丁なのだろう。

しかし近所に住む知り合いに聞くと実は現在の場所と違うんだそうです。

実は現在の場所より少し南にずれて木町通一丁目の通りにある須藤紙屋さんの向かいから東に延びる道が昔の跡付丁で、それは国分町の通りまで突っ切っていました。(現在は西公園の通りから跡付丁公園まで)。



現在の表具屋さんの裏の辺りが昔の通りで春日神社のすぐ真裏を通っていたことになる。



では春日神社は後ろも前も道に挟まれた薄い土地だったのか?



これも実は現在の道とは若干違い今より少し南に道が位置していました。
現在の春日神社の正面はすぐ道路なのに対し大正元年の地図を見ると、参道の印が表記されています。




これらは戦後の区画整理で土地が区画し直され、周囲に分配してどうしても余ったところが跡付丁公園になったそうです。

大正元年の地図を見てわかる通り現市役所の南側の通り(表小路)と北材木町の通りを直結させるためにずらしたのですね。

ちなみに大正元年の地図には跡付町とありますが丁と町とちらが正しいのでしょうか。
【跡付町】(ここでのよみは 「あとつけ*ちょう」 と呼んでいる)
跡付(あとつけ)とは幇間(たいこもち)の異名で、即ち遊客の機嫌を取り、酒興を助けることを仕事とした男衆のことである。…住んでいた所からこの町名が生まれたと思われる。
三代藩主綱宗が隠居した万治三年(一六六〇)に本弓の町・二日町・天神下などの遊郭屋が禁止されたとか、当時国分町に外人屋(諸国各藩などから来た人々の宿泊所)がこの附近に置かれたことなどを思い合せてみると、二日町や国分町に隣接するこの裏横丁に、跡付町のような性格の町の存在が想像される…。
(仙台地名考より)

コメント (1件)

  1. ごとう よしこ より:

    ブログを拝見しました。今年も春日町内でお祭りが行われます。昔の写真を集めて皆さんに見て頂く機会を作っていただきました。是非こちらのブログもそのまま掲示させていただきたいのですが、いかがでしょうか?お店のpdfにして印刷と考えています。お店の名前もそのまま出ることになります。ご了承頂けたら、印刷(A4)し掲示物を作りたいとおもいます。使用は来月6月9、10日です。ご検討よろしくお願いいたします。

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北山 寂光寺の参道はここにあった

2015/6/11

北山羽黒神社の別当寺は青葉山 寂光寺だったという話は(「北山の羽黒神社と青葉山の名の由来」)以前にしましたが、その参道の名残りがわりと最近まであったとう話を輪王寺の斜め向かいに店を構える横田やのご主人に教えてもらいました。寂光寺自体は明治元年に廃寺となりました。横田やのご主人が北山に住む90代のおばあさんに若い頃はその参道の名残りがまだあったと教えてもらったそうです。
実際その場所に立ってみると予想以上に広い参道でした。
それだけ大きなお寺だったのでしょうか。境内は羽黒神社の東側で北山霊園より南側あたりではないかと推測します。
左側細い路地がその先クランクになっており羽黒神社へとつながる。この道より右(東側)からピンク色のマンションが建っている位置までが参道の幅です。
地図上で確認。(地図をクリックで詳細)この地域は根白石街道と秀衡街道に挟まれたところである。
ちなみに現在の羽黒神社境内にある愛宕神社がもとあった場所は北山霊園の真ん中南側あたりだそうで現在も参道の一部が残っています。
この階段は壁で左に曲がりその先は北山霊園の管理事務所の裏にたどり着くが、実際当時はどうだったのか。壁の先に階段があったのか?
反対側から見るとちょうど壁のうらは駐車場?になっており開けている。ここら辺が愛宕神社の境内だったのか?
北山霊園内にの駐車場のど真ん中にどうどうとある松の木。
これも昔からのものなのか。こういう邪魔なところにある大きな木は大概そうだろう。
そういう木とそれを残そうとした配慮はとてもすてきだと思います。

コメント (7件)

  1. バッケ より:

    進展あったら書き込みしようといましたら大分日が空いてしまって失礼します。
    この旧街道の先、枯木橋の傍らに、(確か)「月山大権現 羽黒山大権現 湯殿山大権現」と刻まれた石碑があり、その繋がりと田中様のように思っておりました。
    せめて碑がある地に昔あった物がどのようにあったか知りたく、図書館で古地図を見ようとしたものの自力で探せずじまい、これ以上辿れずにいました。
    久しぶりに碑の前を通ったついでに再度碑を見ました。すると、日が射してきて前には見えなかった文字を確認。
    「金峯山 行者」
    名前の隣に細く刻まれておりました。
    脇に日付と講中立之の文字。

    話は飛びますが。鉄門海上人についてネットで読んでいたところ、下記の表記がありました。

    『上人の足跡が、北は北海道から関東にまで及び、庄内地方をはじめ上人の徳を称える頌徳碑がいたるところに建立しています。 主な石碑を一覧表にまとめましたが、現在も調査中です。 皆様の近くに『湯殿山 鉄門海』などと刻まれた石碑がありましたらお知らせ頂けると幸いに存じます。御協力をお願い致します。

    県名 市町村 石碑数 場  所 碑    文 建立年月日

    庄内町 22基 余目連枝 厳島神社 湯殿山行者 鐡門海
    (一部抜粋)』

    このような碑なのかもしれませんね。
    金峯山寺、奈良の吉野に縁のあるお方と思いました。
    遠き昔、このような方がいらっしゃった事、それを残して伝えた事、今、このように気づく事、少ししみじみと思いをはせました。
    どこまで当たってるかわかりませんが、ネタを投げた者としてこれで話がとりあえず締められればすっきりしそうでしたので書き込みいたします。

  2. 田中泉 より:

    石碑「徳音海」についての予想

    各位
    おばんでございます。
    表記の件、思い当たることがあるので書き込み致します。
    「徳音海」の文字がどのように刻まれていたかは存じ上げませんが、
    私には人名の様に思われます。
    では、どこの人間か。
    現在の山形県、出羽三山の湯殿山系統の行者であれば納得できます。
    明治の廃仏毀釈以前、出羽三山は月山と羽黒山が天台宗、
    湯殿山は真言宗での奉仕を行っていました。
    この湯殿山系統の行者には名乗りに特徴があり、
    宗祖空海(湯殿山系統では湯殿山は空海の開山と申し上げる)から
    一字頂戴し、「〇〇海」と名乗ります。
    湯殿山系の即身仏になられた行人様には
    真如海上人、鉄門海上人といずれも「海」が付きます。
    とすると、徳音海上人に世話になった人が供養に建てたのではないかと。
    予想する次第です。胎蔵界大日如来の種子が書いてあれば完璧なんですが。

    羽黒山神社別当が寂光寺は形にはまっていますので
    素直に行けばこれで。

    1. admin より:

      田中さん
      なるほどおもしろい推理ですね。梵字についてはまったくわからないですけど「徳音海」という文字の上に何か梵字が刻まれているようですね。
      胎蔵界大日如来の種子かは私には判別着きませんが…。

      詳しい説明ありがとうございました。

  3. バッケ より:

    石垣のところで行き止まりに見える石段、以前はお寺があったのだろうかと、石段脇にあった石碑に刻まれた文字を頼りに探し始めたもののわからず、結局、廃寺の名前と地名からこちらのブログを見つけました。
    石碑に刻まれた「徳音海」(ネットで検索してわからず)からお寺があったと推測してたのですが、もしかしたら石碑は旧街道に沿ってるからあるのかもしれませんね。
    愛宕神社はあの地にずっと鎮座されてたと思ってました。
    違う視点からの話を読めて面白かったです。
    上れなくて、石段を上った先がどうなってるかわかったのがなによりでした。

    ところで、近場に謎がもう一つあるのです。
    鳥居前にある羽黒神社の案内図にある「帝釈天」。
    とだけ、申しておきます。
    ゆくゆくは境内でどなたかに尋ねようと思ってます。

    1. admin より:

      バッケさん、こんにちは。
      なるほど、北山霊園の下の道にある石段を調べていたらこのブログに辿り着いたのですね。
      羽黒神社にある現在の愛宕神社がその昔、北山霊園あたりにあったという話は横田やさんのご主人にお聞きしました。
      残念ながら石碑の「徳音海」については存じ上げませんでした。

      「帝釈天」に関しましては、現在はありませんが、羽黒神社境内の愛宕神社のとなりに最近までありました。
      しかし神社の建物の後ろに道路を通すためになぜか帝釈天だけが撤去されたそうです。震災の年あたりのことです。

      1. バッケ より:

        ご返信ありがとうございます。
        他の日付で帝釈天についてのお話をされているのを書き込みした後に気づきましてf(^^;)失礼しました。

        帝釈天を奉ってるところを調べたときに仙台では羽黒神社だけでてきたのと、他の方のブログでは帝釈天とその後ろにあったお寺がなくなっているとあったので、移転に期待もしてましたが、そうでしたか。

        境内では春にご神木を仰ぎ見る楽しみがあるのですが、御神木の下が古墳(昔からの自然の地形だと)だったとは思いもよらず。
        住んでる北山の氏神様をようやく知る事もできました。
        他にも興味あるお話があってためになりました。
        ブログ、これからも拝読させていただきますね。 

        1. admin より:

          ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

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羽黒神社のお祭

2015/6/10

北山羽黒神社は,仙台藩初代藩主伊達政宗が慶長7年(1602)に福島県信夫郡より分祀してきたものと伝える。仙台市登録文化財となっている北山羽黒神社境内社は,かつて当社の拝殿であったが,昭和45年(1970)の新築の際に移築され,境内社として残されたものである。入母屋造(いりもやづくり)桟瓦葺で,桁行(けたゆき)三間,梁間(はりま)二間,三方に縁を廻らし,一間の向拝(こうはい)が付く。江戸時代後期の建立と思われる。(仙台市ホームページより)

IMG_0447
6月6日は北山羽黒神社のお祭りでした。
ここのお祭りはここ最近の仙台市内の神社のお祭りでも珍しく賑わいをみせ、氏子の演芸が盛んです。
まちなかの神社のお祭りとしては賑わっている方なのではないでしょうか。
同日程で行われていた春日神社のお祭りはもっと屋台も人も多いですが、羽黒神社もなかなか面白いなと思いました。
こちらがかつての羽黒神社の社殿です。
現在は立派で頑丈な社殿が建っています。
他にも境内には愛宕神社があり、さらに少し前まではその横に帝釈天がありましたが後ろの道路を通すために撤去したそうです。なんとも悲しい。(写真は当時のもの、木の下に「帝釈天」板看板が見える)
羽黒神社の階段から見る景色。
翌 日曜日にはお神輿があり町内を練り歩いてました。

 


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見事なミニチュアの世界が完成しました。三丁目の夕日的な懐かしい風景

2015/3/3

へくり沢ジオラマ

前回、柏木市民センターにて行われた事業で八幡町を昔流れていたへくり沢(深い沢があったが現在は埋め立てられて暗渠となっている)を中心とした昭和33年の八幡町の地形模型を作製し、当時の土地の高低を再現しました。



それが昨年平成26年の春に完成し、その後の後継事業として八幡小学校を中心とした界隈のジオラマの作製を開始しました。
製作に携わったのは引き続き柏木市民センターの館長さん、マップテクノさんと地形模型作製に参加した有志の方々、そして古くから八幡町の春日神社近くに住む今野氏です 。

前回の地形模型は昭和33年の白地図を等高線に沿って切り貼りして立体化したものに対し、今回のジオラマは八幡町の春日神社あたりから小学校の脇の深い沢を流れるへくり沢と、昭和15年当時の風景を再現しました。

例えば建物、当時の屋根の高さは現在ほど高くない。ここは田んぼだった、畑だった、果樹園だった。この家は四谷用水の水を使って染物屋をやって庭で干していた。木に関してもここは梅の木だった、サルスベリだった、木蓮だった、金木犀、しだれ桜だった…と細かく当時の状態にできるだけ忠実に再現しました。


昭和15年当時の風景といいますのも、現在の春日神社の境内にある昭和15年ごろの周辺の絵とそれを描いた今野さんの当時の記憶をもとに作製したからです。



我々は電気コードの配線を剥いて中の銅線をねじって広げ木を作ったり、食器洗いの色のついたスポンジをハサミで細かく切って木の葉の部分や桜の花の部分を作りました。また、亀の子タワシを切り少量ずつ束にしてグリーンに色付けして田んぼの稲を表わしたり、ほとんどジオラマ用の既製品を使わず本当に手作りで作りました。
建物はプラ板を切って接着剤で固定して、その色付けに関しては全て今野さんにしてもらいました。




製作期間は完成まで約10ヶ月、月1〜3回のペースで集まりました。
と言っても私は参加できない時も多く、ほとんどの作業は他の皆さんの頑張りのおかげです。私は電気の配線の中の銅線の先を広げて木を作くるぐらいしかお手伝いできませんでした。




2月14日の事業発表会(お披露目会)では20人くらいの方々にお集まりいただき、今野さん達のお話を交えながら興味深げに皆さん見ていました。



中には外国人の姿もありました。

 


コメント (3件)

  1. きたろう より:

    返コメントありがとうございます。
    引用先のURL等下記の通りです。
    (引用元の貴ブログのURLは明示しています。)
    宜しくお願い致します。
          記
    ブログ名:SO-NETブログ→きたろう散歩
    ブログタイトル名:ブラタモリ・トレース/仙台・四谷用水(その1) 
    ブログURL:http://hiroshige-kitarou.blog.so-net.ne.jp/2015-11-14

  2. きたろう より:

    はじめまして きたろうと申します。
    先月、四谷用水を辿る散歩会を行い、関連でへくり沢も歩きました。
    この散歩会のレポ・ブログに貴ブログのへくり沢周辺の、立体地図模型の写真を転載させて頂きました。
    事後ですが、ご了承の程、お願い致しますm(__)m

    1. admin より:

      きたろう様
      引用先を掲載してもらえば大丈夫です。
      画像を掲載したブログのURLも教えてください。
      よろしくお願いします。

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