春日町の裏通り、法務局の裏辺りに小さな公園があります。いつもなにげなく通っていましたがその名前は跡付丁公園というそうです。
近くの辻票に跡付丁/北材木町とあったのでその跡付丁から名前がきているのだろう。
木町通一丁目の通りに東西に交差する道の角に辻票が建っていたのでその東西の道が跡付丁なのだろう。
しかし近所に住む知り合いに聞くと実は現在の場所と違うんだそうです。
実は現在の場所より少し南にずれて木町通一丁目の通りにある須藤紙屋さんの向かいから東に延びる道が昔の跡付丁で、それは国分町の通りまで突っ切っていました。(現在は西公園の通りから跡付丁公園まで)。
現在の表具屋さんの裏の辺りが昔の通りで春日神社のすぐ真裏を通っていたことになる。
では春日神社は後ろも前も道に挟まれた薄い土地だったのか?
これも実は現在の道とは若干違い今より少し南に道が位置していました。
現在の春日神社の正面はすぐ道路なのに対し大正元年の地図を見ると、参道の印が表記されています。
これらは戦後の区画整理で土地が区画し直され、周囲に分配してどうしても余ったところが跡付丁公園になったそうです。
大正元年の地図を見てわかる通り現市役所の南側の通り(表小路)と北材木町の通りを直結させるためにずらしたのですね。
ちなみに大正元年の地図には跡付町とありますが丁と町とちらが正しいのでしょうか。
【跡付町】(ここでのよみは 「あとつけ*ちょう」 と呼んでいる)
跡付(あとつけ)とは幇間(たいこもち)の異名で、即ち遊客の機嫌を取り、酒興を助けることを仕事とした男衆のことである。…住んでいた所からこの町名が生まれたと思われる。
三代藩主綱宗が隠居した万治三年(一六六〇)に本弓の町・二日町・天神下などの遊郭屋が禁止されたとか、当時国分町に外人屋(諸国各藩などから来た人々の宿泊所)がこの附近に置かれたことなどを思い合せてみると、二日町や国分町に隣接するこの裏横丁に、跡付町のような性格の町の存在が想像される…。
(仙台地名考より)
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ブログを拝見しました。今年も春日町内でお祭りが行われます。昔の写真を集めて皆さんに見て頂く機会を作っていただきました。是非こちらのブログもそのまま掲示させていただきたいのですが、いかがでしょうか?お店のpdfにして印刷と考えています。お店の名前もそのまま出ることになります。ご了承頂けたら、印刷(A4)し掲示物を作りたいとおもいます。使用は来月6月9、10日です。ご検討よろしくお願いいたします。
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