仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

カテゴリ:歴史

「ふしぎ!発掘!発見! 不思議な地形をジオラマにしよう」 その2

2014/4/3

「ふしぎ!発掘!発見!
不思議な地形をジオラマにしよう」と題して行われた作業ですが柏木市民センターの館長さんいわく今作っているのは最終的なジオラマではなく地形模型であると。
これが完成した後、へくり沢周辺のジオラマ(プラモデルの背景にあるような感じのイメージのもの)を造りたいそうです。
まだまだ道のりは長い!
今回の模型は昭和33年の仙台の
地図で1/3000のものです。
ここまで現在のような正確な測量が行われた地図でもっとも古いものだそうです。
1月の末からほぼ毎週土曜日に集まり約2時間ほどずつ作業をして4回の予定が間に合わず計5回集まりました。

2月15日は前の週に続く記録的な豪雪のなかみなさん集まって作業をしました。

ゲジゲジに見える部分も太線が引かれていますのでカッターで切っていきます。とても細く、のちに使われるパーツなのかどうかわかりませんが、途中で折れてしまわないように切り出します。

なんとか切り出しました。新坂通のあたりの部分ですね。

ブルーシートの上の地図はおそらく一番下の土台から二番目の地図でしょう。切られている部分が少ないので。28mはそのパーツの標高の数字です。

4回目以降の作業は主に切り終えたパーツを重ねて貼り合わせる作業でした。
各自担当し、切り離し終えた地図が広げられている。元は同じ昭和33年の地図(現在の宮城一高あたりを中心とし北は北山あたり西は国見あたりまで)で、標高によって切る場所が異なり一枚で5つの高さを切り分ける。
地図の下に敷いている段ボールに書かれている数字は等高線の数字でそれを目安に各地図から等高線に準じたパーツを探して貼り合わせます。


20m間隔の等高線を一枚から切り出す。それらを2mごとに重ね合わせていく。
指示する人、各パーツを集める人、貼り合わせる人に分かれ作業は進む。パーツを集めるのはまるでトランプの神経衰弱をやっているような気分です。


裏側から見ると下の方に隙間があるのがわかります。これは1枚の地図から複数の等高線のパーツを切り出したのでこのようになっています。

最後の回は時間の関係で完成を見ずに退席したのが残念でしたが、だんだんカタチになっていく様子を見てると楽しみになってきました。


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へくり沢「ふしぎ!発掘!発見! 不思議な地形をジオラマにしよう」 その1

2014/2/28

柏木市民センターで昨年4回に渡り「へくり沢」についての講座が開かれましたが、その集大成として「へくり沢」のジオラマ模型を作ります。

※「へくり沢」とは昔、国見の辺りを水源とし八幡町を縦断する深い沢のことを言い、現在は広瀬川へとそそぐ暗渠となっている。この深い沢のため仙台藩開府当初は町の中心部と八幡方面が寸断され土橋ができるまではかなりの遠回りを強いられていた。







昨年の講座はたくさんの方が出席しましたが、ジオラマ作業は約8人と有志の方々で行われました。





我々の他には柏木市民センターの館長さん等2人、そして今回指導してくださるのが仙台マップの安斎信行先生です。



ジオラマ作製は4回に分けて1月の25日からほぼ毎週土曜日の午後2時間余りずつ行われました。



初日は安斎先生の方から作業について簡単な説明をいただきましたが、何せ私も含めみんな初めての体験なのでなかなかイメージを浮かべるのが難しいようでした。



昭和33年の地図をもとに作るわけですが、その地図を800mm四方厚さ3mmのスチレンボードに貼り合わせ、同じものを60枚くらい用意します。(もとの地図は25枚で、そこから60の標高を取り出す)



それらのボードを一定の間隔の等高線で切っていきます。それぞれのカットしたパーツを重ねていき完成させるのですが、これが大変なようです。



<模型製作仕様書>より

8、操作手順

1、等高線のトレース

高い方から重ねる地図

1図 140m、120m、100m、80m、60m、

2図 138m、118m、98m、78m、58m、

3図 136m、116m、96m、76m、56m、

4図 134m、114m、94m、74m、54m、

5図 132m、112m、92m、72m、52m、

6図 130m、110m、90m、70m、

7図 128m、108m、88m、68m、

8図 126m、106m、86m、66m、

9図 124m、104m、84m、64m、

10図122m、102m、82m、62m、



低い方から重ねる地図

11図 22m、12図 24m、13図 26m、14図 28m、15図 30m、

16図 32m、17図 34m、18図 36m、19図 38m、20図 40m、

21図 42m、22図 44m、23図 46m、24図 48m、25図 50m



意味の分からない数字が並んでいますが、10図から順に上に見ていくと122、124、126…と2mずつ増えているのがおわかりになると思います。そして高い方から重ねる地図では4~5つの標高を切り出していきます。

(今はわかっているから言えますが、最初は説明を聞いてもちんぷんかんぷんでした)



簡単にイメージを説明しますと、例えば富士山のジオラマを作ろうとすれば裾野の方からカットしたパーツを順に重ねていけばできると思うのですが、材料を節約するために1枚のボードから幾つかの等高線のパーツを取り出します。つまり裾野の部分をとるボードで上部分もとることになり、少ない枚数でより多くのパーツを切り出しそれらを重ねると富士山の内部が空洞になるのです。



これは事前に作成した簡易的縮小版。



一通り説明を受けたあと早速作業開始。各ボードには切るためのガイドライン(指定の等高線に沿って少し太めの実線)が引いてありますが、たくさんある等高線の中で密集してるところでは多少見づらい感はあります。



ペン型のカッターを手に切り込みを入れるが垂直に切るのが難しい。また切ったつもりでも下まで貫通していなかったり。





一回目は初めてだったので慣らしということで終了。でも次回からはカットするパーツの大きさは小さくなりますからと言われた。本当に難しいのは今回だけであとは比較的楽なのかと一安心。





しかし二回目は単純ではないのです。

次のパーツは起伏が多いので、つまり山がたくさんありその間に窪地もある、全てがなだらかな傾斜とは限らないのです。

また比較的直線に近いライン・滑らかなラインは比較的カットしやすいのですが、そもそも自然の地形なのでそういうものはほんのわずか。細かくうねうねとしたラインをひたすらカットしてい作業を強いられます。ゴミみたいな小さなものもパーツです。



その日は貼り付け積み上げ作業も同時に行われました。カット作業の合間に積み重ねられたものを見ると少しずつ実感がわきます。



作業にも熱が入り真剣です。完成するのが楽しみになりました。


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伊達政宗公の愛馬

2014/1/1

わが家には中学生の娘がいましてテニス部でよく青葉山 テニスコートまで車で送っていくことが多いのですが、 駐車場の隅に目をやると何やら 鳥居がありました。それは細く小さな鳥居で、奥にいくつか同じものがあり、朽ちてるものもありましたがちょっとした京都の伏見神社みたいにも思えました。(写真は夏に撮影したものです)


草木が生い茂って少し気味の悪い感じでしたが 入って小径を辿って行くと小さな祠がありました。その左脇には石碑があり、そこには「五島馬頭観世音」と刻んでありました。
五島馬とは一体なんだろうか。


あとで調べたところ、五島馬とは伊達政宗公の愛馬だそうです。
小牛田の後藤家より政宗公に献上した馬で後藤家から献上された黒毛の馬だったので後藤黒(「ごとうこく」と読むのか)と呼ばれた。後藤黒に政宗公が乗り、戦に出ると必ず勝つと言われるほど名馬だったそうです。
ところが大阪の陣にはすでに老馬になった後藤黒は連れて行かれませんでした。それを嘆き後藤黒は本丸の崖から身を投げたそうです。
政宗公は後藤黒が身を投げた崖の下の蛎崎(現在の川内追廻)に葬り馬上(うばがみ)蛎崎神社を建て追廻馬場の守護としたという。
これが青葉山テニスコートの脇(青葉城のすぐ下)にある神社だったのです。
その後明治4年に、片平丁の良覚院跡に移転して、五島墓(ごとはか)さんとして親しまれ、また子供の馬脾風(ジフテリア)除けの信仰があるということです。(片平の馬上蛎崎神社境内説明板より)



後藤から五島へとどこかで変わっていったのでしょうね。
ところで青葉城にある伊達政宗公の騎馬像の馬はもしかすると五島馬がイメージなのかもしれませんね。

ということで今年は午年、馬にちなんだ話題を書いてみました。


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勾当台とはいかに

2013/12/5

勾当台ってよく考えたら変な名前ですよねぇ。仙台に生まれた時から住んでいて今まで普通に勾当台公園って呼んでいました。

ところで仙台には市街地を横断する三つの主な道路がある、
青葉通、
広瀬通、
そして定禅寺通。
青葉通はわかる、杜の都仙台だから。
広瀬通もわかる、広瀬川流れる岸辺〜♬
定禅寺通の定禅寺ってなんだ?お寺なんかどこにもないぞ。
昔はあったんです、しかも重要な場所に。
現在の勾当台公園の裏あたりに定禅寺というお寺がありました。それは青葉城から見て鬼門に位置する場所にありました…しかしながら明治になって…明治6年に廃寺なってしまったのです。
 古刹(こさつ)定禅寺は京都三宝院の末寺で、永正年間(1504~21)に融済法印を開山とした真言宗であった。
 伊達政宗が仙台開府に当り、城の鬼門にあたるので、真言密法の祈願時として定めた。寺領六十六石を給して着座格に列し、仙台における真言宗三寺の一として重きをなした。住持はしばしば藩主の連歌の席に連なるなどのことがあり、伊達家の帰依も篤かったが、宝永五年(1708)正月の大火に堂宇がことごとく炎上した。さらに明治維新後は藩の外護(げご)を失って衰頽(すいたい)し、かつ明治六年に至り仙台鎮台病院をここに移すことになったので、ついに廃寺となった。定禅寺跡には戦災(昭和二十年七月)の時まで、古木として有名な定禅寺桜があった。
 定禅寺通は本材木町からこの定禅寺門前に突き当たる通りということから起った地名である。
(仙台地名考 菊地勝之助著より)

定禅寺に続く道として定禅寺通という名が残ったのです。定禅寺は現在の勾当台公園の裏の方にあったそうです。
で、危なくスルーするところだった勾当台公園の勾当台、よく見ると変な漢字の集まりですね。勾は勾配の勾?当はあ当る?台は公園の奥が高台になっているが…。よくわからない。
調べてみると、勾当とは盲官の位階の一つで、上から検校、別当、勾当、座頭の順でした。
(※盲官:盲人で琵琶・管弦・鍼・あんまなどを業とした者に与えられた官名。)
座頭市は座頭の市さんだったんですね、なるほど。
勾当台とは花村勾当という盲人の狂歌師からきた地名だそうです。
花村勾当の屋敷があった場所で芭蕉の辻から見て高台であったため勾当台と呼ばれるようになったということです。確かに公園の奥、野外ステージがあるところは急に高くなっている。屋敷は現在の公園の東側から北側の高台にあったそうです。
花村勾当という人物は
ある時伊達政宗に名前を尋ねられると
「なに一字 ちがいありとて ことごとし きみは政宗 われは政一」
と即興の歌で答えた。この粋な返しにとても気に入った政宗は、その狂歌の才を愛でて、勾当の役職と屋敷を与えた。
現代だったらこのステージに上がってうたうのか(笑)ある意味聖地?

不思議な地名を紐解くと意外なおもしろいことがわかりますね。
ちなみに現在の勾当台公園は以前ブログに書いたように、地下鉄の開通に合わせて道路を作るために削られました。
削られた…、正確には分断されたのです。
昔の航空写真を見ると南西角の部分が今もなお残っているのです。
それはどこかというと毎年光のページェントで定禅寺通りの角に聳え立つ木に大きな(au協賛の)電飾がつけられてますよね、その木こそが以前の勾当台公園の南西角にあったヒマラヤシーダなのです。場所は変わっていません。
昭和50年の勾当台公園

昭和59年の勾当台公園(地下鉄南北線工事の様子)

現在の勾当台公園

今年の冬はまた違った感じで光のページェントを見ることができそうです。
【おまけ】
勾当台公園の一部には「古図広場」というところがあって昔の養賢堂の門の前に位置します。またそこには昔流れていたという四ッ谷用水の復元水路があります。単なる憩いの池じゃないんですよ。
古図広場という名だけあって林子平の銅像があったり、昔の通りの名前の地図があったり、また仙台城下をイメージした立体的な地図があります。ちょうどバスの停留所の裏、もしくは地下鉄の出入り口にあるので人は通るのですが通り過ぎる人がほとんどです。ちょっと立ち止まってちょっとの間、昔の風景を思い浮かべてはいかがでしょうか。


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へくり沢をたずねて 現地調査

2013/11/28

前回10月24日に柏木市民センターで講座があり講師は東京スリバチ学会の皆川典久氏。この回は土木な話と題して次回の実地の予習的な感じでした。相変わらず、周囲の人は自分よりずっと年配の方がほとんどでした。
そして11月10日にいよいよへくり沢を歩いて辿る。
今回、変わったところと言えば若い人たちがちらほらおりました。学生の男子が二人と、若い女の子3人組。
女の子達に聞くと自分の住んでいる街についてなんか知れるかなと予備知識も特別な興味もなく軽い気持ちで参加したそうです。それでも興味深げに見ていました。
こんな感じで若い人でも参加するととても面白いですよ。普段毎日のように通っている道なのにこんなものがあるなんて知らなかったとか、昔は川だったのかと驚きがあります。
ではでは、簡単に辿ったコースを見て行きましょう。

集合場所は大崎八幡宮の鳥居下。
前回の講座で先生が私は雨男なんですと前もって謝ってましたが、当日は台風も近づき予告通りあいにくの空模様。なんとか終わりまでもってくれればいいなぁと祈りながら歩きました。
途中パラパラと降ってきましたが、フードをかぶるくらいでなんとか大丈夫でした。
八幡神社を出て、龍寶寺へと少し登り途中路地を曲がり先の四ッ谷用水の上を通りながらしばらく先で曲がり西友八幡店の脇から48号線を超えて、八幡杜の館に立ち寄りました。


ここは元造り酒屋の天賞の敷地で杜の館は天賞移転後一部建物を移築したものです。
建物内では展示物がその時によって変わります。

八幡杜の館をあとにして宮城第一高校の前を通って歩くとこんな看板がありました。

ここはよく自転車や車で通るのに初めて気づきました。さらにはその少し先にあるシーアイマンション中島丁の敷地内にある木がすごい。樹齢300年のたぶのき。

よく注意して見てたつもりでしたがわからないものですね。
敷地内には井戸もありました。
あとで知ったのですがここには他に2本も保存樹木あるそうであとでゆっくり見に行きたいと思います。
まっすぐ進むと尚絅女学院だが、手前左手は昔の十二軒丁にあたるそうだ。
尚絅女学院の脇から橋の下へ降り、澱不動尊前を通りながらへくり沢が広瀬川へとそそぐ出口を確認。

そこから沢跡を上に辿り土橋へとぶつかる。ここは細い獣道のような道を行き上へと登って行きます。
傾斜に沿って横に進む道、これは昔の土橋の名残で一段、二段と徐々に高くなったそうです。昔は沢の底まで降りて渡っていた。

土橋の上へ出ると現在の十二軒丁へ曲がり、すぐ脇に下る。
そこは土橋を挟んで橋の反対側の沢跡。

そこから北へ戻って八幡小学校の裏を北上。ここは昔深い沢だったが今は全くおもかげはない。道なりに行くと石切橋に出る。ここは沢こそ見えないが橋の名残がある。

春日神社に移動し、御堂の中を見せてもらうことができました。そこには今野喜一さんが描いた昭和15年ごろの周辺の絵で参道に設置されてるもののオリジナルが納められていて、今野さん本人に貴重なお話を聞くことができました。

四ッ谷用水と交差する地点を見、赤道を辿って寿徳寺方面へ。

最終的に国見児童館がゴール。ここは少し上方より湧き水があり堰き止めて堤を作り、その堤が現在の国見児童館あるところである。国見児童館脇から国見小学校の境の傾斜は堰き止めた名残。

ここからへくり沢は始まっている。
ここで本日の講座は終了なのだが、それを待っていたかのように急に雨足がひどくなった。とにかくギリギリまで天気がもってよかった。
それにしてもかなり歩いたなぁ。
【本日歩いたコース】 ※地図をクリックすると拡大して見れます


コメント (4件)

  1. kumagai-ya より:

    SECRET: 0
    PASS:
    これからもよろしくお願いします。

  2. caz3 より:

    SECRET: 0
    PASS:
    丁寧なご解説を頂き、ありがとうございました。なるほどよくわかりました。
    過去分の記事を読まずにコメントを書いてしまって、すみませんでした(笑) もう以前から詳しく解説されていたのですね。タグをたどって、へくり沢以外の記事も是非読ませていただきます。ありがとうございました。

  3. kumagai-ya より:

    SECRET: 0
    PASS:
    caz3さんコメントありがとうございます。おっしゃるとおり新坂通は南端の新坂に由来する名前です。もともとは新坂に通ずる道ということでその名がつけられました。土橋通も同様に土橋に通ずる道ということでその名がつきました。仙台で○○通というものは○○に通ずる道となりその先に○○があります。「こんな端っこに…合理的ではない」という風に思われるのも当然だと思いますが、先ほど述べたとおりです。ただ本ブログにもあるように「へくり沢(1)~土橋通りの土橋ってドコ?」(http://kumagaiya.exblog.jp/20455975/)の中で土橋までまっすぐ土橋通が直結していないことからどうして土橋通というのか最初疑問でしたが歴史の変遷をみることによって納得できます。

    結論を言うと土橋はへくり沢に架かる橋で四ッ谷用水に架かるものではありません。
    私も最初は四ッ谷用水を越えるところに架けた橋のこと言うのかと思っていましたが先に述べたとおり○○通の○○とはそういうことです。
    へくり沢に関する当ブログ順に読んでいただくとだんだんその変遷や理由がわかってくると思います。
    わたしもそういった疑問から書いたので内容を理解していただけると思っています。

  4. caz3 より:

    SECRET: 0
    PASS:
    はじめまして。楽しく読ませていただきました。
    突然申し訳ございませんが、お尋ねしたいことがあります。
    「土橋通り」の名前の由来についてなのですが、
    一般にはこのへくり沢にかかる土橋が名前の由来、と言われると思います。しかし、こちら http://www.melon.or.jp/melon/contents/Section/Water/wg/profiles/profile031.html には、四谷用水にかかった土橋を元にした地名である、と書かれていますね。どちらが正しいのでしょうか?
    へくり沢の土橋は、長い土橋通りの南端に在るので、こんな端っこに位置する物を元に通り名をつけるのは合理的でないのでは・・・、とも思ったのですが、すぐ近所の新坂通りはまさに通りの南端の坂が名前の由来です。お城から見て通りの入口にあたる南端の地形から通り名をつけた、とも思えます。いかがなものでしょうか。

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古城の梅

2013/11/11

去年は時間がなくて見れなかった臥龍梅、今年は見ることができました。
若林にある宮城刑務所の敷地の中にある臥龍梅、11月の矯正祭で見学するとこができます。

さらに今回はちょうど発掘調査をしていたので、それも見ることができてラッキーでした。

大きな門をくぐって最初に目にするのは左右に大きく手を広げたように伸び続ける松。水平に伸びた枝の長さは15m、14mと非常に長い。種類は黒松であるが土井晩翠に「蟠竜の松」と名づけられた。

(「杜の都の名木・古木」より)
その松の先には発掘調査が行われている場所。
ここは政宗公が晩年過ごした若林城でその跡に刑務所が建てられた。老朽化と地震の影響で立て直すことになったが、若林城ゆえ発掘調査が行われたという次第。そこに行くと各作業員が説明してくれました。刑務所の外を流れる六郷堀が城内にも流れていたことを示す痕跡が見つかったとのこと。26日の新聞にも載った。
若林城は仙台藩祖 伊達政宗が仙台城築城後の寛永5年に「仙台屋敷」として造営した城で、晩年の政宗公は若林城を仙台での居所としました。寛永13年に政宗公が死去すると、遺言により城は廃絶され、『伊達治家記録』によると、城内の多くの建物は寛永15年に二代藩主の忠宗公が造営した仙台城二の丸に移築されました。その後、城跡藩が営む薬園となり、明治12年に宮城集治監が置かれました。
城跡の規模は東西420m、南北350mもあり、本丸部分としては他の大名の居城にも匹敵する広さがあります。周囲には高さ5mの土塁と外側には幅約20mの堀跡が巡り、土塁や門の配置から、戦を意識した城とも言われています。
(若林城跡発掘調査 第13次 遺跡見学会資料より)
そのあと受刑者の作業場を見学、ここは家具など木工用品を製作する場所で、なかなか年季のはいった建物だ。大きな体育館のようでもあり、その天井を見ると天井裏は木の板、また、天井から鉄の骨組みのような感じのものがぶら下がっている感じ。
作業場の次はいよいよ臥龍梅。
残念ながら花の時期には見ることはできないが見事なものだった。昭和17年に国の天然記念物に指定されて以来、刑務所の人も手入れをすることができず枝は伸び放題。(写真ではわかりずらいが)柵をかなり超えて枝を広げている。しかしながら老齢で花は年々小さくなっているのだそうだ。

(「杜の都の名木・古木」より)


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へくり沢 地形(番外編)

2013/10/17

土橋の下、元のへくり沢の底に行って写真を撮っていたら、そこに住んでいる方とたまたまお話ができ貴重な情報を得ることができました。
その方は土橋の真下のアパートの大家さんで、小さい時からそこに住んでいたそうです。
その方のお話によると昔は裏の白く細い建物の辺りから水が流れちょっとした滝のようだったとか。
さらにその流れは現在のアパートの裏を通り少し先の窪みになっているところで蟹子沢(へくり沢)と合流していたそうです。
窪みのところで合流とは…写真で見る妙な窪んだ壁、そこが昔の合流地点だったとか。

そこは暗渠から開渠になった部分でその先も開渠になってて道路沿いに沢があったそうです。
沢が広かった部分は古いアパートの前のところで、沢を渡るのに小さな橋が二か所掛けられていたそうです。
沢の向こう側(オレンジのアパートや住宅がある奥)に家や商店があったそうです。(昭和30年頃)

どおりで入り口の段差が妙な傾斜になっていると思った。
ちなみに先ほどの白く細い建物の辺りから流れ落ちる滝は恐らく四ッ谷用水の支流と関係があるのではないかと思われます。土橋通から南へ突き当たった四ッ谷用水は北三番丁へと折れていきますが、その折れる地点が白い建物のあたりだからです。

また南側にある澱不動尊の裏を昔は馬などが往来していたと町内会長さんがおっしゃっていたそうです。
これは何を意味するか、推測ではありますがへくり沢に沿って河口まで続く道の名残ではないかと私は思います。なぜなら不動尊の背後はちょうど沢の斜面の延長線であるから、可能性はあると思う。そして現在道路になって新坂へ渡るところに板橋が架けられていたのだろう。

今回お話を伺うことができた方は昔からそこに住んでいてお父さんからよく昔の話を聞いていたそうです。
またわりと早くからその地に住んでいたということから、戦前にはすでに住宅があったのかもしれません。
そして、その方も自分が住んでいる場所(蟹小沢)についてもっと知りたいという気持ちがあるようで、これからは地元の歴史に関する市民講座などにも参加してみたいとおっしゃっていました。


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へくり沢 地形(3)

2013/10/17

土橋の名残り
現在、土橋は北三番丁から十二軒丁に対して丁字にぶつかる形ですが、これまでの話のように、いろいろな変遷を遂げて現在の形になりました。
ではその名残りはまだあるのだろうか?かつて沢だったところは住宅が建ち、沢の名残りはあるものの昔の土橋の名残りなんて考えもしなかった。もちろん今と昔で土橋の位置が異なることを知らなかったのだから当然だ。
現在の土橋の東側に下方へ降りて行くけもの道にも似た径がある。下の住民の近道かな?くらいにしか思っていませんでしたが、その径は下からの登ってきて二手に分かれ土橋の両端へ続く。この二またの径がちょっと不思議には感じてはいました。

実はこの二またの径が昔の土橋なのだとか。(詳しくはわからないので仮説といたしましょう)そうだとすると下へ降りる径はへくり沢沿いに河口まで辿り新坂へ続く径と考えると納得がいく。(仮説)

橋というものは対岸から対岸へ架けられるというイメージ、もしくは古地図上では平面のイメージだが、実際は沢の斜面を少し下って下の方で橋を架けていたようです。
それはおそらく沢の深さもさることながら対岸への距離もあり普通に橋を架けることは困難だったからなのでしょうか。
そして二またの径の北側へ伸びる先は現在の道には合流せずに右にカーブし再び左にカーブして土橋通へと繋がっていた。その左にカーブして土橋通に繋がるところはおそらく現在白い建物が建っているあたりだと思います。建物の沢側はかなりの崖になっていますが、昔、その下にも家があったので建てる際に削って切り立ったのでは。だから以前はもう少し緩やかな傾斜だったのではないかと推測される。


明治26年の仙台測量全図にもまだその跡が載っているのがわかる。

大正元年の地図では土橋通と北三番丁とがぶつかるところで少し突き出ているのが名残か。(現在の道路とほぼ同じ)

現在の同場所(北三番丁から十二軒丁を見た写真)

今回の講座で今と昔のへくり沢周辺についてある程度正確なイメージが掴めたような気がする。
そして今までモヤモヤしていたことがだんだん晴れてきました。


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へくり沢 地形(2)

2013/10/16

姥ヶ崎
土橋の北側、へくり沢沿いに姥ヶ崎という地名がある。
これは前回話した十二軒丁の辺りのへくり沢に突き出した地形のことを言う。
名前の由来で姥が歩くのに困難なところという意味でつけられたのか?
一方、大崎八幡宮の別当寺であった龍宝寺の敷地内には有巴ヶ崎神社がある。
これは「うばがさき神社」と読むそうだ。
写真ではわかりづらいが「有巴崎正一位稲荷大明神」とある。

へくり沢は地域によって呼び名が違う。蟹子沢とか巴沢とか土橋沢とか。

土橋沢は土橋周辺のことを言うのだろう、蟹子沢はおそらく小さい沢蟹がたくさん獲れたのではないだろうか。
巴沢…、巴(ともえ)というのは渦を巻いているような様をさしているのか、とするとへくり沢は普段は水量が少ないが雨が降った時は水かさが増え渦を巻いていたので、そこから来たのではないか。
実は巴は「へくり」と読むのだそうだ。もともと巴沢(へくり沢)が読み間違って巴沢(ともえ沢)となったのでは?
いろんな説が考えられる。
話は戻って、十二軒丁のあたりは有巴沢町とか姥ヶ崎町とも呼ばれた。つまり姥ヶ崎はもとは有巴ヶ崎だった?巴(へくり)からきた地名。(当て字か?)
有巴ヶ崎神社ももともとこのあたりにあったのかもしれない。
こう考えるとなんだが納得がいくような気がする。


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へくり沢 地形(1)

2013/10/15

へくり沢第2回の講座がありまた参加してきました。
講師は東北文化学園大学 建設環境学科の八十川淳氏。
今回は「へくり沢-地理な話」
前回の講座で土橋が造られた変遷がよく理解でき、最終的に北三番丁から十二軒丁に対して丁字に土橋がぶつかる現在の形になったわけですが、昔の十二軒丁はどこなのか?現在のそれとは違うのです。
ずっと気になっていましたが今回よくわかりました。
今回は地形的なお話だったのでへくり沢の周辺について、いろいろ時に仮説を交えながらとても興味深かった。
現在の地図で国道48号線を山形方面へむかい八幡町の弥勒院を過ぎた交差点で左に曲がると突き当たってまた左にカーブし、その先に愛宕神社があり、さらに突き当たりは宮城第一高へとぶつかる。(紫の線)

変なところに(裏通りにひっそり)
ある神社だなぁと思っていましたが、昔おもて通りは今と反対で南側だったそうです。ご存知の方も多いかもしれませんが、弥勒院もその昔正面の入り口は今の裏手にあったのです。国道48号線ができた時にそちら側が表になったため入り口の向きが変わったそうです。
そういうことで、河岸段丘の下方の屋敷町から見て上の方にお寺と神社があったのは必然的とも言えます。
弥勒院の山門を横切って、突き当たりが元の十二軒丁でした。寛文4年の地図を見るとそこはまだ大きな屋敷が2軒でしたが、天明6〜寛政元年の地図では2軒の境界に道が敷かれ、12軒の家が建つようになってからいつしか十二軒丁と呼ばれるようになったのです。
ちなみに私のイメージでは 通りに面して十二軒、軒を連ねているのかと思っていました。十二軒のかたまりだったんですね。
【仙台城下絵図寛文4年】


【仙台城下絵図天明6~寛政元年】

ということで現在の十二軒丁より南に位置して、へくり沢に突き出していた場所にあったということがわかりました。さらに十二軒丁の名前の由来もなんとなく納得しました。ただ十二軒あるだけじゃなんとも思わないがある一定の場所に十二軒ごちゃっと塊っているとひとまとめにしたくなりますよね。


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