仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

カテゴリ:歴史

ヘくり沢(3)~ ヘくり沢と土橋、その周辺の変遷

2013/9/27


*寛文4年(1664)の城下絵図
寛永20年(1643)ヘくり沢に土橋を作り土橋通に繋がる。このことで北三番丁と中島丁が通じた。
明暦2年(1682)土橋から十二軒丁へ通じる道、切通が作られる。

*元禄年間初期(1690年前後)の城下絵図
この地図を見るとさらに中島丁辺りからヘくり沢沿いに南下する道ができている。
元禄8年(1695)土橋から南下する道、そして川内へと渡る橋が架けられる。これが澱橋だが現在のものとはかなり異なる。そして橋の北から東へ曲がる道を作った。(新しくできた坂ということで新坂と名付けられた。新坂通はここへ通ずる道)

*寛政年間初期(1800年頃)の城下絵図(仙台市博物館所蔵)

*明治26年(1893)の地形図
明治10年~20年、土橋と切通を改修して北三番丁と十二軒丁をまっすぐに繋げて、澱橋から土橋に繋がる道をこの道に丁字になるように接続させた。
これがほぼ現在の形になるのです。
ちなみに元禄8年に架けられた澱橋はその後流されたりしながら改修を重ね土橋から中島丁に続く道の延長に架けられた。(明治26年の地形図参照)しかし現在はほぼまっすぐに澱橋へと続いている。(昭和39年「仙台市大鑑」参照)その名残として昔の橋げたが今もあります。


*昭和39年「仙台市大鑑」より
昭和14年(1939)市電を通すために北四番丁を西に伸ばして八幡町と繋げるために、ヘくり沢を暗渠にする工事が始まり、昭和15年に八幡町まで道は繋がった。
第二次世界大戦後、瓦礫を用い土橋付近のヘくり沢を埋め立てて、昭和30年代にはそこに住宅が建てられた。
現在、土橋から土橋通へとまっすぐ道をつなげる工事をしています。これがつながれば正真正銘「土橋通」になりますね。

9月12日に行なわれた講座は無料で定員無しだったこともありかなりの人が集まりました。市民センター側も予想以上だったようで急遽テーブルと椅子を用意しましたが、それでも間に合わず一番後ろは椅子のみで、60人くらいは集まったでしょう。年代は私よりずっと先輩の方がほとんどでした。
約2時間菅野先生のお話を聞けて有意義な時間を過ごせました。また講座後に菅野先生とお話しできてよかった。

↑まだ余裕がありますがこれは30分前です。

菅野正道氏
へくり沢の地図

最後にへくり沢の暗渠を歩いていました
下の画像をクリックすると映像が見れます。


コメント (2件)

  1. 松井秀明 より:

    はじめまして、松井といいます。今年2月27年ぶりに仙台に戻ったものです。朝通勤時に土橋ー澱橋を通るようになり、その道の曲がり、起伏が懐かしく、そして桜の土橋の風景に思わず目を奪われていました。そのたび「きっとここは、江戸時代からの道に違いない!誰か由来を教えてはくれないだろうか・・・」と思っていました。由来が大変よくわかりました。ありがとうございました。
    改めて仙台の町を歩くと、戦災で残った地域の道はとても味わい深く感じています。気になる箇所がいくつかあるので、今度は私も自分で調べてみようと思います。本当にありがとうございました。

    p.s お菓子のほうも食べようと思います。

    1. admin より:

      松井様 コメントありがとうございます。仙台には一見不思議な場所がたくさんありますよね。ちょっと視点を変えるといろいろなことが見えてきます。これからもよろしくお願いします。

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へくり沢(2)~ だから土橋通なのです

2013/9/27

現在北四番丁から続く国道48号線は八幡町へと向かい大崎八幡神社を横切りその先へと続いているが、実は以前は土橋通で寸断されいたという。繋がったのはわりと最近(?)で、市電が走る昭和になってから。
へくり沢は仙台開府当時から深い渓谷を成していて、開府当初はそこで城下町が終わっていた(城下町との境界線)可能性が高いということだそうです。
それだけ沢を越えるのには難所だったのです。
へくり沢を越えるには当初は沢の浅い上流の方の覚性院(春日神社辺り)を通っていたそうです。
今も名残として石橋が残っている。

しかしそれでは仙台城へはかなり遠回りだったのでへくり沢に土橋を架けることにしたのです。
さらにその後に土橋から十二軒丁へ通じる道を作った。これは切通と呼ばれる。(切通:切通しとは、山や丘などを掘削し、人馬の交通を行えるようにした道である。Wikipediaより)
しかしこれらの道は現在のそれとは異なっています。
土橋が造られた当初そこへ通じる道は現在のようにクランク状ではなく緩やかなカーブを描きながら現在の土橋通へと繋がる。だから土橋通なのです!

【*寛文4年(1664)の城下絵図】
土橋通や切通、そしてまだこの頃存在しない淀橋など幾つか時代とともに変遷を遂げて現在に至っているのです。
へくり沢が開渠になって広瀬川にそそぐ


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へくり沢(1)~土橋通りの土橋ってドコ?

2013/9/26

土橋通とは厚生病院の西側から国道48号線を横切り北西へ続く道。
仙台では○○通とは○○に通ずる道という意味。では土橋とはどこを指すのか?
土橋とは澱橋へ向かう道の尚絅学院高校の少し手前の道を指します。この部分はよく見ると通りの両端が崖のようになっていて、尚絅学院高校の裏へと続いている。東側の下方には住宅がある。
これは昔へくり沢という深い沢があって、それを越えるために昔の人が樋を通し土手を盛って作った橋が土橋なのです。

あぁ なるほど…って
いや待てよ、しかしながら土橋通は厚生病院の西側で北三番丁にぶつかると鋭角なクランクがあってから土橋へと続く。しかも北三番丁からさらに続く道に対し丁字に土橋からの道がぶつかっている。

とても土橋通が土橋へと素直に至る道とは思えません。さすがに無理がありますよねぇ。
そんな折、先日、柏木市民センターで「へくり沢を訪ねて」へくり沢-歴史な話と題して仙台市史編さん室の菅野正道さんを講師に迎えて講座が開かれたので参加して、その中でへくり沢と土橋についてお話を聞く機会がありました。


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仙台で造った貨幣

2013/8/23

たまたま花壇川前丁で見つけた銭形不動尊



堤防の側面にへばりついたように祀ってある不思議な不動尊、説明を読むと…
銭形不動尊について
藩祖政宗公が仙台藩のお金(仙台通宝)をつくるときどんな型にしようと考えていました。そのとき、お不動様が現れてこんな型にした方が良いと教えてくれましたのでその型を石に彫って鋳型を作ったとのことです。
 その後、その鋳型が不要になったので反対側の面にお不動様を彫りました。そして青葉山の見える花壇にお宮をつくって祀りました。大正十年頃までお宮がありましたが、その後、壊れてお宮は川に流され、お不動様は川に落ちてしまいました。
 その後、広瀬川の堤防を作る時、川から引き上げ、花壇川前丁の現在の場所に安置しました。石垣に張りついたようになっているので鋳型は見ることはできません。
 なお、上流の常盤丁の不動尊付近(現市民会館周辺)で水害その他のたびに人命を失うことが多く、反対に銭形不動尊付近では流れ着いた人を救い上げたり、水難者を引き上げるなどが多いことから、銭形不動尊は「人助け不動」と呼ばれ、信心する人が参詣に訪れます。

なるほどこのお不動様の石碑の裏は仙台通宝に使われた鋳型だったのか。
仙台通宝、すなわち熊谷屋の商品としてもある「仙臺鐵銭(せんだいてっせん)」であるので少々調べてみました。

江戸時代初期の貨幣
中国の貨幣(永楽通宝)を輸入使用
寛永13年(1636年)通貨の統一をし、国産の銭貨を鋳造した。
→以後、「寛永通宝」の名称が定着
寛永14年(1637年)銭座(ぜにざ)を拡大
主な鋳造場は3か所 江戸浅草橋場 芝網縄手 近江坂本(大津)
であったが、
標準貨幣となる寛永通宝を増産するため全国8カ所に銭貨の鋳造(ちゅうぞう)が許される
水戸藩 仙台藩 松本藩(信州) 三河吉田藩(愛知)髙田藩(上越市)
岡山藩 長州藩(山口) 岡藩(大分県竹田)
※仙台はこの当時栗原郡三迫で鋳造していたが詳しいことは不明

寛永17年 銭貨がじゅうぶん普及したため銭座をいったん停止した
(しばらく造られていなかった)
◆伊達吉村公の代
四代綱村の改革による財政逼迫を改善するため藩政改革を行う。
その一つとして
享保12年(1727~1730年 享保年間)
領内産、銅貨に限り幕府の許可を得、享保13年(1728年)石巻で鋳造を始める
1739~1742年(元文・寛保年間)銅一文銭
これより石巻の鋳銭場に移り鋳造(水運に恵まれていて原料や燃料を集めやすかったため)
裏面に鋳造した地域を表す「仙」または「千」の文字が入っている(すべてではない)。
当初は銅一文銭だったが、仙台藩で鉄が豊富に産出できたこともあり鉄一文銭に変わる。
石巻の鋳銭場は現在でも地名に残されており、鋳銭場跡としてお堂もある。鋳造に使われた「甑炉型鋳銭釜 (こしきろがたいせんがま)」は現在塩釜神社にある。

◆伊達重村公の代
1764~1772年(明和年間)鉄一文銭
1775~1779年(安永年間)鉄一文銭
1784~1789年(天明年間)
天明の飢饉に際し藩財政の逼迫を立て直すために幕府に再び願い、鋳造の許しを得た。
明和年間に鋳造した銭貨が多すぎたことにより通貨の下落したことをふまえて名称と形を変え領内通用に限られた、5年間の鋳造期限付き。
名称:仙台通宝
形状:鉄一文銭通用銭 四角くて角が丸く中央に四角形の孔が開けられている。
初期のものは大型で次第に小型化した。「大様」「中様」「小様」の三つに分類される。
飢饉救済の名目で造られたが実際は正貨である銅貨を吸い上げ藩政を潤すためであった。
仙台通宝は質が悪く鉄のため錆びやすく、財布や袂がほころんだり、怪我をしたりした。
悪貨なためインフレを招き領外にも流出したため5年の期限を待たずに終了した。
これがいわゆる「仙臺鐵銭(せんだいてっせん)」であるが、悪貨であったとは…。
しかしながら寛永通宝などの丸い形ではなく角の無い四角(撫角銭と呼ばれた)という特徴的な形だけはおもしろいと思う。また「仙台通宝」と地名がはっきり銭貨に刻まれているものも珍しいだろう。
花壇川前丁にある銭形不動尊は残念ながら仙台通宝とは直接関係ないかもしれません、時代が異なりますね、もしかしたら政宗公ではなく重村公のことだったのかも。でも、伝説としてそっとしてあげたいものです。
その後も寛永通宝のみとなるが断続的に明治維新まで造られた。
1838~1841年 鉄一文銭(天保年間)
1859~1869年 鉄一文銭(幕末)
※年号は主に七十七銀行金融史料館「石巻鋳銭場」鋳銭年表より
参考までに鋳銭工程を簡単ではありますが説明します。
種銭引:砂の上に種銭を並べ、鋳型をつくる
形踏:種銭を挟み込んだまま表裏の型枠を合わせ踏み固め、種銭や銅を流すための道となる棹を置き、砂の方に写し取る
湯道切:鋳型に写し取られた銭と棹の間をつなぎ、溶かした銅(湯)が流れる道(湯道)を作る
種籠入:母銭の回収する
火手松篝:出来上がった鋳型を松根油で炙り、鋳型を乾燥させ強化させる
形〆:鋳型が崩れないように表裏を合わせて固定する
甑(こしき):鋳型に流すための銅(湯)を溶かす
湯次:表裏2枚一組の鋳型を立てて固定し、上から溶かした銅を流し込む。堂は湯道を通って、各鋳型へ流れ、しばらくすると冷えて固まる
鋳出銭:鋳型から枝状につながった銭貨を取り出す
台摺:鋳型から取り出した銭貨の側面を削って形を整える
目戸切:銭貨の中の孔の部分の鋳バリを削り取り、四角の穴に整える
床焼:古墨と油で銭を煮る
形打:??
平研:銭貨を並べ、表裏を砥石で磨いて滑らかにする
丸目:側面の周囲を砥石で磨いて滑らかにする
臼踏:梅酢による処理
銭洗:銭貨を水洗いする
露取:乾かして水分を取る
↑この中にある甑(こしき)は塩竈神社に行くと現物を見ることができます。


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コメント (2件)

  1. kumagai-ya より:

    SECRET: 0
    PASS:
    返事が遅くなり申し訳ありません。なにげにこのブログコメント第一号でした!!

    お褒めの言葉とてもうれしく思います。ギリギリ買えてよかったです。
    今後とも熊谷屋のくるみゆべしをよろしくお願いします。(^^)

  2. さなえ88 より:

    SECRET: 0
    PASS:
    仙台空港で数あるゆべしの中から直感で熊谷屋さんのを購入。

    ゆべし好きで今まで色々食べてきましたが同じく大好きな母と「今まで食べたのはゆべしじゃない!もっちり感、くるみの量、適度な甘さや香ばしい醤油の風味が相まって絶品唯一無二のゆべし」と感動しました。

    今回仙台駅に参りましたので帰路に着く前駅で探したのですが見つからず。新幹線時間も迫るしもう無理だと諦めかけたら、エスパル地下にあると親切な市民の方が。
    爆走し本日15個無事に買うことが出来ました。新幹線もギリギリセーフ。
    熊谷屋さんのゆべし素晴らしい味です。丁寧な味づくりを大切にされて下さい。

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松尾芭蕉の辻ではありません

2013/7/29

青葉城から城下町へと続く大町通と奥州街道とが交差するところを「芭蕉の辻」といいます。
現在明治安田生命ビルの前に碑が建っており、由来などが書いてあります。

「芭蕉の辻」の芭蕉は松尾芭蕉からきているのかなと思いがちですが、実はまったく関係ないのです。
それでは、名前の由来はなんなのでしょうか。
それにはいくつか説があり、
ひとつは…
その昔その場所は札番所(ふだばんどころ)で、禁止事項などを公示した制札(せいさつ)を建てていたところでした。よく時代劇で見る御触れ書きですね。
そこから札の辻と呼ばれていたのですが、人が集まる賑やかな場所であったので「場所の辻」から「ばしょうの辻」→「芭蕉の辻」となった説。
ふたつめは…
政宗の命で芭蕉という虚無僧が開府以前の仙台(千代)の情勢を監視し報告をする任務をし、仙台築城におおいに貢献したので札の辻の四隅に建てた(挟間を備えた)城郭式楼櫓へ住まわせました。その後街の喧騒を嫌い名取の増田に居住したそうですが、その後その虚無僧を称え「芭蕉の辻」と呼ぶようなったという説。
三つ目は辻に植物の芭蕉が植えられていたからという説。
なんか三択クイズのようになってしまいましたが(スーパーひとし君人形!)、どれも苦しいような気がするのは私だけでしょうか。一般的にはふたつめのが有力な説だとか。
名前の由来はこのくらいにして、100年前の地図を見ると芭蕉の辻の近くに「真壁」と表記されています。
これは現在新寺小路にある(以前は広瀬通にあった)印刷や紙類を扱う真壁商店さんの前身なのです。
…と言われてもみなさんよくわからないと思いますが、真壁商店さんはうちの取引先でしかも私の中学の同級生の家です。
以前彼から「うちもけっこう古くて、昔は芭蕉の辻あたりで旅館業をやっていたんだ」という話を聞きました、
それが、この地図に載っていたのです!古地図で見つけたときはとても感動しましたね。
細かく見ていくと昔の地図っておもしろいですね、意外な発見があったりして。
ちなみに地図には紅久さんや一力さん(一力健治郎と関係があるのでしょうか?)も表記されていますね。

「仙台地図さんぽ」風の時編集部より

また南町通から見ると芭蕉の辻より手前は少し道幅が広くなっています。これは南町通より市電が通っていたのです。ここで行き止まりという非常に変な路線ですが、南町通駅から郵便局前駅、芭蕉の辻駅までなのです。

懐かしいですねちんちん電車、北四番丁の通りも走っていて、車庫は現仙台市交通局の建物があるところでした。
幼いころ祖母に連れられて最後の花電車(市電廃止記念のお別れ電車)を見に行った記憶があります。
市電だけにちょっと脱線してしまいましたが、「芭蕉の辻」は松尾芭蕉とは関係ないという話でした。


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仙台が誇る自転車

2013/6/14

「仙台運搬車」
この名称を聞いたことありますか?
私は最近知りました。
私が小さい頃(まだ幼稚園の頃だったろうか、低学年のころっだったろうか)、近所で畳屋をやっている友達の家によく遊びに行っていました。
表の作業場を通って奥の自宅へと入って行くのですが、その際作業場の片隅にあった大きなそして頑丈そうな鉄の塊に見えた自転車がいつも気になっていました。ある時動かしてみようとハンドルに手をやりましたがとてもじゃないけど子供の力では押し倒されそうで無理でしたね。
ハンドルの前に大きな荷台があるこの自転車はどんな重いものを運ぶのだろうと子供心に思っていたのを覚えています。
当時よく見慣れた近所の自転車、その自転車こそが仙台運搬車だったのです。
当時の業務用の自転車は皆ああいうもんなんだなぐらいにしか思っていませんでしたが、仙台が発祥の自転車だったのですね。(仙台の鍛冶屋が改良したのが始まり)
なんだか懐かしく、そして誇らしく感じました。
先日私はこの仙台運搬車が見れるということで鐘崎の笹かま館に行ってきました。こちらのかまぼこ塾というノスタルジックな街並みを再現した場所の片隅に仙台運搬車はありました。

私が子供のころ見たものはもっとフレームやタイヤが太かったと思います。
正式名は「前荷台運搬車」でしょうか。問屋等の重荷の運搬に使われたそうですが現在では製造はされていません。
特徴は
・120kgほどの荷物も楽に積める
・荷台に置くだけで縛らなくても荷物が安定している
・重荷を積んでも後ろ荷台よりハンドルの操縦性がよい
・フレームが頑丈である
・後ろ荷台運搬車より、乗り心地が軽いことが驚異的である
(東京の科学技術館でも「前荷台運搬車(ナトリ号)」として展示されているようです)
どれも、実際乗ってみないことにはわからいことですが、仙台を中心に多く使用され、全国に広まったようです。

また、仙台市内のサイクリングショップ、ファンライド・シクロヤマグチでも展示しています。
興味のある方は一度見て懐かしむのもいいのではないでしょうか。
↓さすが自転車屋さんでもともと売り物だったものなので新品の状態でした。(2階に展示)


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盡忠(じんちゅう) 伊達安芸宗重と涌谷要害

2013/6/1

伊達安芸という人物は伊達騒動(寛文事件)の中心的人物で、伊達兵部宗勝と争い最終的に兵部派の原田甲斐の乱心により殺害された。 今回、涌谷町立史料館にて伊達安芸ゆかりの品を5月末まで特別展示しているというので行ってみました。 まずは伊達宗重公祀り神号を赤心猛雄命と称する涌谷神社を拝観。 伊達安芸宗重公胸像 一応、涌谷町立史料館と読みます… 涌谷町立史料館は涌谷伊達家の城跡にある天守閣を模した建物で… 隣には仙台藩に残る貴重な天保4年(1833)建立の鼓楼建築の櫓があります。 あとから知ったのですが、涌谷町立史料館は震災で旧館していて今年4月15日に再開館したばかりだったそうです。 史料館に入り目当てのものは2階にありました。 それは「盡忠」の掛軸と銘舎利容器。 「盡忠」の掛軸は伊達安芸の死後、伊達家四代目綱村が宗重公の忠勤を讃え自らの筆で書いたもの。 写真では見たことありましたが本物を目の前にして何とも言えぬ感動です。 寛文事件の集約がこの二文字に表れているようにすら感じました。 そしてさらにもう一つ、 宗重の分骨した遺灰を収めたとされる香炉および曲げ物の容器。 これは震災の影響で見龍院にある涌谷伊達家墓所の門脇に立つ石造五重塔がずれたため平成24年7月に修復するのに解体したところ内部から偶然発見されたものだそうです。 とても綺麗な状態で保存されています。 その他にも史料館には畳4〜5畳くらいはある当時の領地を記した地図があり、とても見応えのあるもので、現在の仙台市内の地名も当時は村であったことが伺えます。 この地図は仙台藩全領土が描かれており北は岩手県水沢辺りまで載っていました。 そして寛文事件の発端のひとつとなった桃生郡(登米)の伊達式部と遠田郡(涌谷)の伊達安芸が新田開発の際に領地境を争った名鰭(なびれ)沼がその地図で確認できたのが嬉しかった。 ちなみに3階は展望室になっていて見晴らしが良かったですよ。 感動覚めやらぬまま、次はいよいよ伊達安芸の菩提寺である見龍寺へと向かかいました。 こちらが見龍廟の門です。 そして脇にあるこの五重塔の中から遺灰が見つかったのです。 この塔は伊達安芸宗重の三回忌に建立されたそうですが、本塔は両墓制における参り墓のような役割を担ったものらしいです。三回忌に…、ということはそれまで遺灰をそのために取っておいたのかそれとも建立時に霊屋から取り出したものなのか、どっちだったのだろう。 中も是非見たいなぁと思ったのですがあいにく門は閉まっていました。そして住職さんも留守のよう…。 たまたまお墓参り来ていた方に話を伺うと普段は開けていないが住職さんがいれば開けてくれるとのこと。 遥々来たのに見れなくて残念です。 仕方がないので塀の上から写真だけ撮りました。 どれがどれだかはわかりません…。 今度、また見龍寺に来よう。そして次回こそは見れますように! 涌谷はとてもいい町でした、自然もいいし、町もレトロな感じで良さそうなお店がたくさんありました。 今度、ゆっくり見て回りたいですね。 登米も行きたい、原田甲斐のお墓があるので。
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仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?続き

2013/3/4

以前「仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?」というタイトルで書きましたが、
菅克復の屋敷はもともと北三番丁にあったという。
その詳しい場所を三居沢電気百年館の館長さんに尋ねたところ後日電話で教えてくださいました。
そこは現在の青葉区支倉町三丁目、大学病院の近くの仙台市交通局のバスプールがあるところの先の角あたりだったそうです。
ほぉ、そうだったのかぁ。念のためにうちにあったゼンリンの地図(97年版)で確認したら、
なんとそこの場所に「菅節蔵」さんというお名前が!
館長さんによると以前、菅克復さんの子孫であるという方がお見えになられて現在は札幌に住んでいるとか…。
地図は97年版なので現在その場所は大きなマンションが立っています。
もしかしたらこの人が札幌に引っ越したのかなぁ。想像は膨らみます。
市民会館から交通局を通り大学病院に突き当たるこの通りは、市電が開通するまで道は通っていなかったそうです。
写真の地図を見るとその道路を作るために敷地が削られたとして、昔はもっと東西に広い敷地だったのではないでしょうか。だって、自分の屋敷内に家内工業の機織り工場を作っちゃうんですからね。

よく見ると菅アパートなんていうのもありました。もしかしてこれも関係してるのかも…
あくまで想像ですが。

 


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  1. admin より:

    菅克復さんのお孫さんがお店にいらして、菅克復の菅と管の間違いを指摘してくださいました。
    残念ながらその時私はお会いできなかったのでもしこのコメントをご覧になりましたら、ご連絡をいただくかまたお越しいただきたいと願っています。いろいろお話を聞きたいのでよろしくお願いします。

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仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?

2013/2/5

うちの息子は現在小学4年生なのですが、先日こう聞かれました。
「お父さん、菅克復っていう人知ってる?」
その名前を聞いてドキッとしました、それと同時に何とも言えない高揚感をおぼえました。

菅克復という人物は天保八年に一関・田村家の家臣の家に生まれた。その後 伊達茂村(もちむら)側近に抜擢され仙台藩士となりました。
維新後、困窮した生活をしいられていた旧藩士たちをみて、救済すべく当時注目されていた紡績業を始めた。私財をなげうって機械をを購入し自らの屋敷(北三番丁:詳細な場所は不明)で明治七年家内工業として士族の子女たちを雇った。
その後明治政府は殖産振興のため十二機の紡績機を導入し、そのうちの一機が東北に配置された。
それが、のちに北三番丁より水力を動力とするために三居沢に移転した宮城紡績会社だったのです。
ここでいくつか私なりの疑問が生じました。
1.現在の水力発電を行っている水源は広瀬川の郷六の方より長い隧道を作って水を引いていますが、当時機織りだけのために最初からそのような距離の設備工事がわざわざ行われたのか?
2.三居沢水力発電所の脇にある不動尊の裏手の大滝は水力発電の水源と関係あるのか?不動尊内には最古の石碑として寛永十一年というから時代が合わない。
3.現在使われている大きなパイプの隣に旧隧道出口と書かれたレンガ造りの穴があるが、位置がかなりおかしいのではないか。
そこで「三居沢電気百年館」に足を運び、入り口にいた係りの方(館長さん?)にダメもとで話をお伺いしたところとても親切に詳しく説明してくれました。
1.三居沢に紡績会社が移転した当時、場所は仙台市交通局川内営業所内の奥の場所だったそうです。
そして、広瀬川から引いた隧道はちょうどすぐ山の裏側でさほど距離は無かったそうです。
←こちらが当時の工場を描いた絵ですが、入り口の門の辺りにある松の木が今でも一本だけ残っているそうで、それが下の写真です。

2.よくよく地図を見たら全く違う水源でした(汗)
3.三居沢電気百年館の裏手に回ると山から駆け降りるパイプがよく見えるのですがちょうど百年館の真裏に明治三十三年当時隧道出口があり向きも現在の発電機の方向とは全く違う向きなのです。係りの方に話を聞くと先ほどの仙台市交通局の場所から規模を大きくするために移転したそうです。そしてその場所が現在の三居沢百年館がある場所。そして館内には日本で第一号となる水力発電機のレプリカが展示されています。当時の場所に置いてあるというのも何か感慨深いものがあります。
その後洪水に遭い工場は流されてしまい、電力の需要増加も伴い現在の場所に第二号を創ったそうです。
現在も現役で稼働しているなんてすごいですよね。
旧隧道

第一号機 (三吉電機製)

三居沢電気百年館

なるほど、謎は解けた!すっきり(´∀`)
菅克復は先見の明があり地域振興に尽力し、県会議員、仙台市議会議長など就任し行政にも活躍された偉人でございます。
知る人ぞ知るという人物ではありますが、仙台の偉人としてこれを機に知っていただければと思いまた仙台の誇りにしてほしいです。
またこうやっていろいろ調べてから三居沢百年館などの施設に行くと百倍楽しめますので、ぜひ参考にしていただきたい。
発電所を造るまでの経緯は…
仙台に鉄道が開通後の明治二十二年二月、料亭「挹翠館」(ゆうすいかん:のち仙台市民会館の前身となる)にて経済人たちがあつまり仙台の電気事業について話し合われた。その後すぐ東京へ赴き電気会社の調査を行い、当時の日銀総裁であった富田鐵之助の助言を求めました。しかし富田は東京でも事業は始まったばかりで不測の事態も起こりかねないので時期尚早と助言をした。
しかしながら
調査に参加したうちの一人菅克復は自分の工場だけでも電灯をともし暗くなっても働けるようにしたいと、東京で小型の発電機と電灯をなんとか購入した。そして明治二十二年六月二十八日に機械が取り付けら、七月一日に東北で初めて明かりがともされた。
あたり一面真っ暗な中 烏崎山頂から工場内までぼんやりと明かりの点がいくつも見え、当時は狐火と思われたそうです。
冒頭の話に戻りますが、
実は、ついこの2~3日前に私も「菅克復」という名前を知ったばかりだったのです。
先日三居沢の大滝を見に行ったあと気になって三居沢発電所について調べていました。
その際に出てきたのが「菅克復」という人物。
詳しく息子に聞いてみると、学校で担任の先生ではなく算数と社会に限ってさらに精通した先生に教わっているそうです。そして、そこで教わるのは教科書には書いてあるもの以外に郷土史もなのだそうで、その中で三居沢の宮城紡績会社を設立した「菅克復」について学んだようです。
「菅克復」なんて仙台の人でも知っている人はほどんどいないと言っても過言ではないと思います。菅克復氏のお孫さん、申し訳ありません。(汗)
さらには「富田鐵之助」「一力健治郎」についても教わっているそうです。
こういう郷土史を教えてくれる先生っていいですね。また息子もそういう機会に恵まれ素晴らしいと思います。

 


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  1. admin より:

    菅克復さんのお孫さんがお店にいらして、菅克復の菅と管の間違いを指摘してくださいました。
    残念ながらその時私はお会いできなかったのでもしこのコメントをご覧になりましたら、ご連絡をいただくかまたお越しいただきたいと願っています。いろいろお話を聞きたいのでよろしくお願いします。

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伝統的な門松

2013/1/2

あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします
さてお正月飾りの一つと言えば門松ですが、よく見かけるのお正月の門松は下の方に松があって真ん中にど〜んと竹が立っているのが普通ですね。たまに梅があったりして…。
そしてその竹は斜めに切られて節が見え、ちょうどそこが笑ったように見える。
この竹は寸胴型で真横に切ったものもある。
斜めに切ったものは「そぎ」と呼ばれ徳川家康が始めたもの。三方ケ原の戦いで家康が敗北後、この次は武田信玄を斬ってやるという意味を込めて作らせたとか。
ということは昔の門松はどういうものだったのか?
江戸では竹の部分が根元からそのまま先端まで挿してあり建物の二階くらいまでの高さだったそうです。
またこれは地域によっても多少異なる形をしていたのでしょう。
仙台は伊達の門松はどういうものだったのでしょうか。
今年はこれが文学館と瑞鳳殿、そしてレプリカを博物館、榴岡の歴史民俗資料館で見ることができるんです。
私は一足先に年末に文学館に行って見て来ました。

シンプルですが迫力を感じられます。
ちなみに瑞鳳殿のはもう少し高さがありそうです。

しめ縄の部分

土台の部分

わかりづらいですが栗の木を軸にしていて、そこに大きな松の枝と3mほどの竹笹を結わえてあります。

1960年辺りまではわずかにこのような門松が残っていたそうです。
これらの材料は泉区根白石の農家8軒が毎年献上していたとのことだ。
瑞鳳殿の門松(読売新聞より)

 


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