昔、野蒜海岸に港を作る計画がありました。いわゆる野蒜築港です。
(野蒜は日本三景の一つ松島の北側に位置する)
明治初期石巻港が北上川上流からの土砂の堆積により河口港としての機能が低下したため、新しい港の建設が必要となりました。
明治政府による日本初の近代港として着工された東北一大事業が野蒜築港です。
下の写真の新市街地とは野蒜築港事業によって新たにできた、鳴瀬川と新鳴瀬川分流に挟まれた市街地のことです。
事業は明治11年から始まり、明治15年に完成したが、明治17年9月の台風により被災し機能を失い、また修復には多額の費用がかかるため事業は断念されました。
現在でもその遺構は残っています。
当時の新市街地跡から新鳴瀬川に架けられた橋の赤レンガ造りの橋台跡、
(東日本大震災の)津波で上の部分はさらに侵食されたようです。
新市街地跡にある記念碑と当時使われたローラー。
ローラーの側面には「土木」の文字が見られる。
記念碑もローラーも一度津波で流されたのを元に戻したようです。
野蒜築港に伴い東北初の気象観測所となる測候所設置され、その跡地。
津波で削られたレンガが砂や他の瓦礫とともに散乱している。
津波の後以前の風景とは異なり遺構を探すのに少し苦労しました。
瑞鳳殿の参道の入り口すぐ左手に「鹿児島県人七士の墓」というものがあります。
宮城県監獄署に収監された薩摩藩の西南戦争政治犯たちも人夫として野蒜築港に尽力したそうです。
この薩摩の政治犯を率い野蒜築港の煉瓦(レンガ)製造技術を伝え、仙台に煉瓦建築をもたらしたのが煉瓦技師の植木留吉という人物です。
東京から来た留吉は仙台で独立し、仙台初の煉瓦工場を建て、仙台初の煉瓦建築は警察署だったそうです。その他にも裁判所、大学の煉瓦建築に携わったそうです。
この煉瓦会社は当時土樋のあたりにあったそうですが、広瀬川の洪水で会社が流されたのちに北山手前の木町に移転しました。
これが植木瓦店だったのです。→/blog/1950
こんなにも身近なところと野蒜築港が関係していたことを知ってとても驚きました。
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