仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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へくり沢 地形(1)

2013/10/15

へくり沢第2回の講座がありまた参加してきました。
講師は東北文化学園大学 建設環境学科の八十川淳氏。
今回は「へくり沢-地理な話」
前回の講座で土橋が造られた変遷がよく理解でき、最終的に北三番丁から十二軒丁に対して丁字に土橋がぶつかる現在の形になったわけですが、昔の十二軒丁はどこなのか?現在のそれとは違うのです。
ずっと気になっていましたが今回よくわかりました。
今回は地形的なお話だったのでへくり沢の周辺について、いろいろ時に仮説を交えながらとても興味深かった。
現在の地図で国道48号線を山形方面へむかい八幡町の弥勒院を過ぎた交差点で左に曲がると突き当たってまた左にカーブし、その先に愛宕神社があり、さらに突き当たりは宮城第一高へとぶつかる。(紫の線)

変なところに(裏通りにひっそり)
ある神社だなぁと思っていましたが、昔おもて通りは今と反対で南側だったそうです。ご存知の方も多いかもしれませんが、弥勒院もその昔正面の入り口は今の裏手にあったのです。国道48号線ができた時にそちら側が表になったため入り口の向きが変わったそうです。
そういうことで、河岸段丘の下方の屋敷町から見て上の方にお寺と神社があったのは必然的とも言えます。
弥勒院の山門を横切って、突き当たりが元の十二軒丁でした。寛文4年の地図を見るとそこはまだ大きな屋敷が2軒でしたが、天明6〜寛政元年の地図では2軒の境界に道が敷かれ、12軒の家が建つようになってからいつしか十二軒丁と呼ばれるようになったのです。
ちなみに私のイメージでは 通りに面して十二軒、軒を連ねているのかと思っていました。十二軒のかたまりだったんですね。
【仙台城下絵図寛文4年】


【仙台城下絵図天明6~寛政元年】

ということで現在の十二軒丁より南に位置して、へくり沢に突き出していた場所にあったということがわかりました。さらに十二軒丁の名前の由来もなんとなく納得しました。ただ十二軒あるだけじゃなんとも思わないがある一定の場所に十二軒ごちゃっと塊っているとひとまとめにしたくなりますよね。


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ヘくり沢(3)~ ヘくり沢と土橋、その周辺の変遷

2013/9/27


*寛文4年(1664)の城下絵図
寛永20年(1643)ヘくり沢に土橋を作り土橋通に繋がる。このことで北三番丁と中島丁が通じた。
明暦2年(1682)土橋から十二軒丁へ通じる道、切通が作られる。

*元禄年間初期(1690年前後)の城下絵図
この地図を見るとさらに中島丁辺りからヘくり沢沿いに南下する道ができている。
元禄8年(1695)土橋から南下する道、そして川内へと渡る橋が架けられる。これが澱橋だが現在のものとはかなり異なる。そして橋の北から東へ曲がる道を作った。(新しくできた坂ということで新坂と名付けられた。新坂通はここへ通ずる道)

*寛政年間初期(1800年頃)の城下絵図(仙台市博物館所蔵)

*明治26年(1893)の地形図
明治10年~20年、土橋と切通を改修して北三番丁と十二軒丁をまっすぐに繋げて、澱橋から土橋に繋がる道をこの道に丁字になるように接続させた。
これがほぼ現在の形になるのです。
ちなみに元禄8年に架けられた澱橋はその後流されたりしながら改修を重ね土橋から中島丁に続く道の延長に架けられた。(明治26年の地形図参照)しかし現在はほぼまっすぐに澱橋へと続いている。(昭和39年「仙台市大鑑」参照)その名残として昔の橋げたが今もあります。


*昭和39年「仙台市大鑑」より
昭和14年(1939)市電を通すために北四番丁を西に伸ばして八幡町と繋げるために、ヘくり沢を暗渠にする工事が始まり、昭和15年に八幡町まで道は繋がった。
第二次世界大戦後、瓦礫を用い土橋付近のヘくり沢を埋め立てて、昭和30年代にはそこに住宅が建てられた。
現在、土橋から土橋通へとまっすぐ道をつなげる工事をしています。これがつながれば正真正銘「土橋通」になりますね。

9月12日に行なわれた講座は無料で定員無しだったこともありかなりの人が集まりました。市民センター側も予想以上だったようで急遽テーブルと椅子を用意しましたが、それでも間に合わず一番後ろは椅子のみで、60人くらいは集まったでしょう。年代は私よりずっと先輩の方がほとんどでした。
約2時間菅野先生のお話を聞けて有意義な時間を過ごせました。また講座後に菅野先生とお話しできてよかった。

↑まだ余裕がありますがこれは30分前です。

菅野正道氏
へくり沢の地図

最後にへくり沢の暗渠を歩いていました
下の画像をクリックすると映像が見れます。


コメント (2件)

  1. 松井秀明 より:

    はじめまして、松井といいます。今年2月27年ぶりに仙台に戻ったものです。朝通勤時に土橋ー澱橋を通るようになり、その道の曲がり、起伏が懐かしく、そして桜の土橋の風景に思わず目を奪われていました。そのたび「きっとここは、江戸時代からの道に違いない!誰か由来を教えてはくれないだろうか・・・」と思っていました。由来が大変よくわかりました。ありがとうございました。
    改めて仙台の町を歩くと、戦災で残った地域の道はとても味わい深く感じています。気になる箇所がいくつかあるので、今度は私も自分で調べてみようと思います。本当にありがとうございました。

    p.s お菓子のほうも食べようと思います。

    1. admin より:

      松井様 コメントありがとうございます。仙台には一見不思議な場所がたくさんありますよね。ちょっと視点を変えるといろいろなことが見えてきます。これからもよろしくお願いします。

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へくり沢(2)~ だから土橋通なのです

2013/9/27

現在北四番丁から続く国道48号線は八幡町へと向かい大崎八幡神社を横切りその先へと続いているが、実は以前は土橋通で寸断されいたという。繋がったのはわりと最近(?)で、市電が走る昭和になってから。
へくり沢は仙台開府当時から深い渓谷を成していて、開府当初はそこで城下町が終わっていた(城下町との境界線)可能性が高いということだそうです。
それだけ沢を越えるのには難所だったのです。
へくり沢を越えるには当初は沢の浅い上流の方の覚性院(春日神社辺り)を通っていたそうです。
今も名残として石橋が残っている。

しかしそれでは仙台城へはかなり遠回りだったのでへくり沢に土橋を架けることにしたのです。
さらにその後に土橋から十二軒丁へ通じる道を作った。これは切通と呼ばれる。(切通:切通しとは、山や丘などを掘削し、人馬の交通を行えるようにした道である。Wikipediaより)
しかしこれらの道は現在のそれとは異なっています。
土橋が造られた当初そこへ通じる道は現在のようにクランク状ではなく緩やかなカーブを描きながら現在の土橋通へと繋がる。だから土橋通なのです!

【*寛文4年(1664)の城下絵図】
土橋通や切通、そしてまだこの頃存在しない淀橋など幾つか時代とともに変遷を遂げて現在に至っているのです。
へくり沢が開渠になって広瀬川にそそぐ


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へくり沢(1)~土橋通りの土橋ってドコ?

2013/9/26

土橋通とは厚生病院の西側から国道48号線を横切り北西へ続く道。
仙台では○○通とは○○に通ずる道という意味。では土橋とはどこを指すのか?
土橋とは澱橋へ向かう道の尚絅学院高校の少し手前の道を指します。この部分はよく見ると通りの両端が崖のようになっていて、尚絅学院高校の裏へと続いている。東側の下方には住宅がある。
これは昔へくり沢という深い沢があって、それを越えるために昔の人が樋を通し土手を盛って作った橋が土橋なのです。

あぁ なるほど…って
いや待てよ、しかしながら土橋通は厚生病院の西側で北三番丁にぶつかると鋭角なクランクがあってから土橋へと続く。しかも北三番丁からさらに続く道に対し丁字に土橋からの道がぶつかっている。

とても土橋通が土橋へと素直に至る道とは思えません。さすがに無理がありますよねぇ。
そんな折、先日、柏木市民センターで「へくり沢を訪ねて」へくり沢-歴史な話と題して仙台市史編さん室の菅野正道さんを講師に迎えて講座が開かれたので参加して、その中でへくり沢と土橋についてお話を聞く機会がありました。


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仙台で造った貨幣

2013/8/23

たまたま花壇川前丁で見つけた銭形不動尊



堤防の側面にへばりついたように祀ってある不思議な不動尊、説明を読むと…
銭形不動尊について
藩祖政宗公が仙台藩のお金(仙台通宝)をつくるときどんな型にしようと考えていました。そのとき、お不動様が現れてこんな型にした方が良いと教えてくれましたのでその型を石に彫って鋳型を作ったとのことです。
 その後、その鋳型が不要になったので反対側の面にお不動様を彫りました。そして青葉山の見える花壇にお宮をつくって祀りました。大正十年頃までお宮がありましたが、その後、壊れてお宮は川に流され、お不動様は川に落ちてしまいました。
 その後、広瀬川の堤防を作る時、川から引き上げ、花壇川前丁の現在の場所に安置しました。石垣に張りついたようになっているので鋳型は見ることはできません。
 なお、上流の常盤丁の不動尊付近(現市民会館周辺)で水害その他のたびに人命を失うことが多く、反対に銭形不動尊付近では流れ着いた人を救い上げたり、水難者を引き上げるなどが多いことから、銭形不動尊は「人助け不動」と呼ばれ、信心する人が参詣に訪れます。

なるほどこのお不動様の石碑の裏は仙台通宝に使われた鋳型だったのか。
仙台通宝、すなわち熊谷屋の商品としてもある「仙臺鐵銭(せんだいてっせん)」であるので少々調べてみました。

江戸時代初期の貨幣
中国の貨幣(永楽通宝)を輸入使用
寛永13年(1636年)通貨の統一をし、国産の銭貨を鋳造した。
→以後、「寛永通宝」の名称が定着
寛永14年(1637年)銭座(ぜにざ)を拡大
主な鋳造場は3か所 江戸浅草橋場 芝網縄手 近江坂本(大津)
であったが、
標準貨幣となる寛永通宝を増産するため全国8カ所に銭貨の鋳造(ちゅうぞう)が許される
水戸藩 仙台藩 松本藩(信州) 三河吉田藩(愛知)髙田藩(上越市)
岡山藩 長州藩(山口) 岡藩(大分県竹田)
※仙台はこの当時栗原郡三迫で鋳造していたが詳しいことは不明

寛永17年 銭貨がじゅうぶん普及したため銭座をいったん停止した
(しばらく造られていなかった)
◆伊達吉村公の代
四代綱村の改革による財政逼迫を改善するため藩政改革を行う。
その一つとして
享保12年(1727~1730年 享保年間)
領内産、銅貨に限り幕府の許可を得、享保13年(1728年)石巻で鋳造を始める
1739~1742年(元文・寛保年間)銅一文銭
これより石巻の鋳銭場に移り鋳造(水運に恵まれていて原料や燃料を集めやすかったため)
裏面に鋳造した地域を表す「仙」または「千」の文字が入っている(すべてではない)。
当初は銅一文銭だったが、仙台藩で鉄が豊富に産出できたこともあり鉄一文銭に変わる。
石巻の鋳銭場は現在でも地名に残されており、鋳銭場跡としてお堂もある。鋳造に使われた「甑炉型鋳銭釜 (こしきろがたいせんがま)」は現在塩釜神社にある。

◆伊達重村公の代
1764~1772年(明和年間)鉄一文銭
1775~1779年(安永年間)鉄一文銭
1784~1789年(天明年間)
天明の飢饉に際し藩財政の逼迫を立て直すために幕府に再び願い、鋳造の許しを得た。
明和年間に鋳造した銭貨が多すぎたことにより通貨の下落したことをふまえて名称と形を変え領内通用に限られた、5年間の鋳造期限付き。
名称:仙台通宝
形状:鉄一文銭通用銭 四角くて角が丸く中央に四角形の孔が開けられている。
初期のものは大型で次第に小型化した。「大様」「中様」「小様」の三つに分類される。
飢饉救済の名目で造られたが実際は正貨である銅貨を吸い上げ藩政を潤すためであった。
仙台通宝は質が悪く鉄のため錆びやすく、財布や袂がほころんだり、怪我をしたりした。
悪貨なためインフレを招き領外にも流出したため5年の期限を待たずに終了した。
これがいわゆる「仙臺鐵銭(せんだいてっせん)」であるが、悪貨であったとは…。
しかしながら寛永通宝などの丸い形ではなく角の無い四角(撫角銭と呼ばれた)という特徴的な形だけはおもしろいと思う。また「仙台通宝」と地名がはっきり銭貨に刻まれているものも珍しいだろう。
花壇川前丁にある銭形不動尊は残念ながら仙台通宝とは直接関係ないかもしれません、時代が異なりますね、もしかしたら政宗公ではなく重村公のことだったのかも。でも、伝説としてそっとしてあげたいものです。
その後も寛永通宝のみとなるが断続的に明治維新まで造られた。
1838~1841年 鉄一文銭(天保年間)
1859~1869年 鉄一文銭(幕末)
※年号は主に七十七銀行金融史料館「石巻鋳銭場」鋳銭年表より
参考までに鋳銭工程を簡単ではありますが説明します。
種銭引:砂の上に種銭を並べ、鋳型をつくる
形踏:種銭を挟み込んだまま表裏の型枠を合わせ踏み固め、種銭や銅を流すための道となる棹を置き、砂の方に写し取る
湯道切:鋳型に写し取られた銭と棹の間をつなぎ、溶かした銅(湯)が流れる道(湯道)を作る
種籠入:母銭の回収する
火手松篝:出来上がった鋳型を松根油で炙り、鋳型を乾燥させ強化させる
形〆:鋳型が崩れないように表裏を合わせて固定する
甑(こしき):鋳型に流すための銅(湯)を溶かす
湯次:表裏2枚一組の鋳型を立てて固定し、上から溶かした銅を流し込む。堂は湯道を通って、各鋳型へ流れ、しばらくすると冷えて固まる
鋳出銭:鋳型から枝状につながった銭貨を取り出す
台摺:鋳型から取り出した銭貨の側面を削って形を整える
目戸切:銭貨の中の孔の部分の鋳バリを削り取り、四角の穴に整える
床焼:古墨と油で銭を煮る
形打:??
平研:銭貨を並べ、表裏を砥石で磨いて滑らかにする
丸目:側面の周囲を砥石で磨いて滑らかにする
臼踏:梅酢による処理
銭洗:銭貨を水洗いする
露取:乾かして水分を取る
↑この中にある甑(こしき)は塩竈神社に行くと現物を見ることができます。


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コメント (2件)

  1. kumagai-ya より:

    SECRET: 0
    PASS:
    返事が遅くなり申し訳ありません。なにげにこのブログコメント第一号でした!!

    お褒めの言葉とてもうれしく思います。ギリギリ買えてよかったです。
    今後とも熊谷屋のくるみゆべしをよろしくお願いします。(^^)

  2. さなえ88 より:

    SECRET: 0
    PASS:
    仙台空港で数あるゆべしの中から直感で熊谷屋さんのを購入。

    ゆべし好きで今まで色々食べてきましたが同じく大好きな母と「今まで食べたのはゆべしじゃない!もっちり感、くるみの量、適度な甘さや香ばしい醤油の風味が相まって絶品唯一無二のゆべし」と感動しました。

    今回仙台駅に参りましたので帰路に着く前駅で探したのですが見つからず。新幹線時間も迫るしもう無理だと諦めかけたら、エスパル地下にあると親切な市民の方が。
    爆走し本日15個無事に買うことが出来ました。新幹線もギリギリセーフ。
    熊谷屋さんのゆべし素晴らしい味です。丁寧な味づくりを大切にされて下さい。

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「みつづける、あの日からの風景」

2013/8/11

3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト 公開サロン「みつづける、あの日からの風景」

せんだいメディアテーク1F オープンスクエアで8月3日で行われました。
NPO法人20世紀アーカイブ仙台の佐藤さんに頼まれてゲスト(他に佐賀さん)として出演してきました。
と言っても私が撮った写真数枚をスライドで見ながら、その時の状況や何を撮ろうとしたのかいつ撮ったのかどうしてこの写真を撮ろうと思ったのかなどを佐藤さんと会話形式で話す程度でしたが。

そして話を聞きに来てくださった市民の皆さんやボランティアの学生さん達らに震災当時個々の状況を聞かせもらいました。それぞれの状況や立場でいろいろ違うんだなと(当たり前なんですが)今更ながらに感じました。
また定点観測で海に近い田んぼの震災当時の写真と1年後の写真、2年後の写真と比較して稲が育っているのにはびっくりしました。当時、減塩にがかなりの年数がかかるだろうとされていたのが2年で復活するなんて誰が想像したでしょうか。(場所にもよりますが)
こういった写真資料は他の地域でもし同じような災害が起きたとき、復旧再生までの目安になるのではとも思いました。
来場した市民の方の中にはやたらと写真を撮ることはどうかというご意見もありました。
それはtwitterなどのSNSが普及し写真をやたらと撮ってネットにアップし、位置情報などがついてプライバシーが侵されるといった理由だったと思います。(間違っていたらすみません)
しかしそれは、震災写真云々以前の問題であり、個々のマナーでありここで議論することではないでしょう。
そもそもこの企画もそういったSNSを活用して撮った写真が今も市民の携帯にたくさんあるだろうから、それを掘起し資料として集め整理し、また定点観測などをして今後に活用していこうという試みなのです。
それらが将来本当に役に立つのかはその時になってみないとわかりません、しかし今それをしないで将来集めようとしても困難を期します、だから今集めるのです。
20世紀アーカイブ仙台の佐藤さんは前回お話した「どこコレ?–おしえてください昭和のセンダイ」も携わっています。昔の写真資料はあるていどもの(たとえば新聞に載るような)は手に入るでしょうが細かい資料は市民の中にたくさん埋もれているのに世に出てこないものがほとんどです。
こういった苦労を踏まえて、現在、デジタル化して(失敗を)躊躇なく撮れる時代だからこそたくさんの資料を集められる機会だと感じているに違いありません。
是非みなさんのご協力をお願いします。

※今まで集められた写真はこちらで見ることができます。→http://www.sendai-city.org/311.htm/


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どこコレ?–おしえてください昭和のセンダイ

2013/8/10

「どこコレ?–おしえてください昭和のセンダイ」
せんだいメディアテーク7階南側ラウンジで7月20日(土)から8月25日(日)まで展示されている昔の仙台の街の写真。


市民が撮った写真なのですが、ずいぶん昔のことなので撮った本人もその写真がどこを撮ったのかわからなくなっている。貴重な当時の資料ですがどこなのかわからなければ意味がありません。そこで他の市民の記憶を借りて場所を特定しようという試みです。
1月にも行われ今回は第2弾ということで、前回確定したものも展示されています。
あまり特徴の場所の街並みを撮った写真なので、本当に地元(近所)の人しかわからないような写真がほとんど。
熊谷屋からも何枚か写真を提供いたしました。
ぜひ足を運んでお力をお貸しください!


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根白石の七夕飾り

2013/8/10

仙台七夕まつりも、初日は雨に見舞われましたが残り二日間真夏の天気で無事終えることができました。
七夕飾りは一番町やおおまちアーケードから名掛丁、駅前だけでなく、荒町や北仙台とメインから離れたところでもそれぞれの商店街や町が工夫を凝らし立派な七夕飾りを飾っていました。
観光客はメインの場所しか見ることはないですが荒町のものはメインの物とはまた違い、なんか昔の七夕風景を思わせるような感じでとてもすばらしいものです。
(すみません写真撮ってないです)
また少し離れて泉区の根白石の七夕飾りは他とは変わっていて鉢植えの竹なのです。
それが民家の軒先に飾られているのはとてものどかでいいものです。
こちらもぜひ足をのばして見ていただきたいものです。




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宮城県沖地震の年にできたんですね

2013/8/1

エスパル開業35周年
先日エスパルの仙台会に出席してきました。
例年この時期に行われるもので、各オーナーに事業報告が伝えられ、そのあと懇親会に移ります。
今年は例年と異なり、
開業35周年ということで盛大な記念パーティーが用意されました。

会場には昔の仙台駅の写真が展示されていました。
35年前といえば、私が小学校1年生の時。
その年は宮城県沖地震があった年でした。
エスパルの開業は当時の私の記憶にはありませんが、そんな大変な時期にオープンしたんだなと、しかもまだ国鉄の時代に単なる駅ビルではなくファッションビルとしてオープンしたのは斬新だったのだろうと想像がつきます。





仙台駅では初代仙台駅舎の写真を探しているそうです。もしお持ちの方はご協力いただければと願います。


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松尾芭蕉の辻ではありません

2013/7/29

青葉城から城下町へと続く大町通と奥州街道とが交差するところを「芭蕉の辻」といいます。
現在明治安田生命ビルの前に碑が建っており、由来などが書いてあります。

「芭蕉の辻」の芭蕉は松尾芭蕉からきているのかなと思いがちですが、実はまったく関係ないのです。
それでは、名前の由来はなんなのでしょうか。
それにはいくつか説があり、
ひとつは…
その昔その場所は札番所(ふだばんどころ)で、禁止事項などを公示した制札(せいさつ)を建てていたところでした。よく時代劇で見る御触れ書きですね。
そこから札の辻と呼ばれていたのですが、人が集まる賑やかな場所であったので「場所の辻」から「ばしょうの辻」→「芭蕉の辻」となった説。
ふたつめは…
政宗の命で芭蕉という虚無僧が開府以前の仙台(千代)の情勢を監視し報告をする任務をし、仙台築城におおいに貢献したので札の辻の四隅に建てた(挟間を備えた)城郭式楼櫓へ住まわせました。その後街の喧騒を嫌い名取の増田に居住したそうですが、その後その虚無僧を称え「芭蕉の辻」と呼ぶようなったという説。
三つ目は辻に植物の芭蕉が植えられていたからという説。
なんか三択クイズのようになってしまいましたが(スーパーひとし君人形!)、どれも苦しいような気がするのは私だけでしょうか。一般的にはふたつめのが有力な説だとか。
名前の由来はこのくらいにして、100年前の地図を見ると芭蕉の辻の近くに「真壁」と表記されています。
これは現在新寺小路にある(以前は広瀬通にあった)印刷や紙類を扱う真壁商店さんの前身なのです。
…と言われてもみなさんよくわからないと思いますが、真壁商店さんはうちの取引先でしかも私の中学の同級生の家です。
以前彼から「うちもけっこう古くて、昔は芭蕉の辻あたりで旅館業をやっていたんだ」という話を聞きました、
それが、この地図に載っていたのです!古地図で見つけたときはとても感動しましたね。
細かく見ていくと昔の地図っておもしろいですね、意外な発見があったりして。
ちなみに地図には紅久さんや一力さん(一力健治郎と関係があるのでしょうか?)も表記されていますね。

「仙台地図さんぽ」風の時編集部より

また南町通から見ると芭蕉の辻より手前は少し道幅が広くなっています。これは南町通より市電が通っていたのです。ここで行き止まりという非常に変な路線ですが、南町通駅から郵便局前駅、芭蕉の辻駅までなのです。

懐かしいですねちんちん電車、北四番丁の通りも走っていて、車庫は現仙台市交通局の建物があるところでした。
幼いころ祖母に連れられて最後の花電車(市電廃止記念のお別れ電車)を見に行った記憶があります。
市電だけにちょっと脱線してしまいましたが、「芭蕉の辻」は松尾芭蕉とは関係ないという話でした。


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