仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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あのレンガアーチがなくなる⁈ 通称 X(エックス)橋

2014/2/20

大正10年に造られたというX橋。
仙台の人には馴染みあるX橋、
仙台駅の北側にあり線路によって分断された元寺小路と名掛丁のそれぞれ東西両端を結ぶ形が>--<になっており、正式名称を宮城野橋という。
橋の両端が二股に分かれているのがXに見えることからX橋と呼ばれるようになりました。

(大正元年)

(昭和3年)
かく言う私も正式名称を知りませんでした。
宮城野橋は大正10年に当時高価なアスファルト舗装で造られ、戦後昭和36年に二代目ができたらしいですが、その際全て新しくしたのか部分的に造り直したのかよくわかりません。
したがってアエルの裏に位置するレンガでできた跨道橋すなわち宮城野橋西レンガアーチがいつのものなのかよくわかりません。
もし誰かわかる方がいたら教えてください。
後日仙台市の道路管理課管理係より返答をいただき、昭和36年に作られたものだそうです。
X橋の一部の使われなくなった石材は仙台駅東口にある塩竈神社の石畳に再利用されていることはあまり知られてないでしょう。


名掛丁藤村広場にあるモニュメント

X橋はもともと旧仙台城二の丸の第二師団と、歩兵第四連隊(現榴岡公園)や練兵場(現宮城野原公園総合運動場)との間を結ぶため建設されました。
現在新宮城野橋はほぼ完成に近い状態まで出来上がってきていますが、先ほどのレンガアーチ状の跨道橋は写真撮影時2月7日現在まだありました。
都市計画で宮城野橋が新しくなる、道路が広くなる、渋滞が緩和され便利になる。
しかしレンガアーチはどうなるんだろう?


このレンガ造りのアーチトンネルはとても味があって好きでした。そのまま当然残されるのだろうと勝手に思っていました。
しかしながら、先日それも壊されてしまうということを知人より知らされて大変ショックを受けました。
壊されるのもショックでしたが、壊されることが全く報道されないということです。
アエルの展望台から撮った写真を見ると現在片道が完成されてもう片方がちょうど跨道橋にぶつかるようです。


今も作業は進んでいます。

背の高いビルの裏にあるのでもしかしたら仙台の人でも知らない人が多いのかもしれませんが、数少ない仙台中心部の遺構がなくなってしまうのは大変残念なことだと思います。
※現在、仙台市の道路管理課管理係の話によると保存の有無に関して歴史的価値並びに保存方法を含め、総合的な観点より検討中だそうです。
また宮城野橋の延長線から一本入った元寺小路沿いに一軒だけあるお店の早坂陶器店は周辺の区画整理で2月いっぱいで移転するそうです。


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さらば農学部

2014/2/18

北六番丁沿い、ちょうど勝山スケートセンターがあった場所の向かいに東北大学の農学部があります。そこは街中であるのに閑静で自然が多かったり、羊などが放牧されていて、それを見に近くの保育園児達がお散歩に来たりと憩いの場にもなっています。
また周辺には小学校や中学校などの教育機関も多い。


今度 東北大学農学部雨宮キャンパスの青葉山への移転により、現在の敷地が別な用途へと使われることになります。
昨年(平成25年)の4月に仙台市と仙台商工会議所と東北大学でもその敷地の活用と街づくりに議論が交わされ商業施設・居住施設・医療施設・オアシス空間などを盛り込んだ土地利用構想が考えられ、それに基づき施設などが設けられる予定らしい。
そしてこの度1月初めに入札が開始され同月31日にイオングループに落札されたことになったのは新聞などのニュースでも記憶に新しいと思います。
現在の農学部には旧制第二高等学校時代の建物があり、
現在でも入口の守衛室としては使われており大変貴重なものです。
屋根はマンサード風で北仙台駅の駅舎にも同じ様な形が見られる。
(計画によると残されるようです)

他にも旧体育館の建物がありましたが残念ながら守衛さんによると去年の春あたりに解体されてしまったそうです。
現在の様子(砂利の空地のところに建物はあった)

また戦後しばらく宮城県第一女子高等学校があったらしく、その碑も残してほしい。

また脇の雨宮堤通には雨宮神社(磐上神社)がひっそりとあり、その境内あたりには四ツ谷用水の名残で用水に架けられた橋が残っていると聞いたことがある。

実際見てみるとこれのことなのか。(白い部分)

四ッ谷用水は北六番丁を本流とし梅田川へとそそいでいく。
そして農学部の近辺にはその名残である欄干の標柱が残されている。
これは当時仙台市長だった島野市長に付属小学校4年生の児童たちが手紙を送って保存を懇願したことによって残されたものであるという。

今後どのように再利用再開発されていくのかはわからないが、四ッ谷用水を市民に知ってもらうチャンスとして、農学部跡地には四ッ谷用水の資料館などの施設をぜひ盛り込んでほしい。


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熊谷屋をデザインしていただきました

2014/1/21

宮城県工業高等学校、インテリア科卒業制作展示会に行ってまいりました。
以前より学校の方から「熊谷屋」さんのデザインを卒業制作として作らせていただいてもよろしいでしょうか?という申請のお手紙と、
今度卒業制作したデザインを展示しますという案内のお手紙をいただいておりました。
案内のお手紙には白黒で一部のデザインが表示されていましたが、それからは色などの情報がわからず正直地味なデザインだという印象を受けていました。
しかしながらせっかく作ってくださったのだからと、展示会期間中に一目は見ようと会場に足を運びました。
場所はサンモール一番町から南町通に出て向いニッセイ仙台ビル1Fにある東北工業大学一番町ロビーです。
仙台の人は元サイカワ向かいといえばだいたい場所はわかることでしょう。
それほど広いスペースではありませんでしたが、その中に熊谷屋をデザインしたものが展示されていました。
それらを見て驚きと感動を覚えました。
地味どころか新しいのに懐かしい、そしてかわいらしいデザイン。
2種類の手提げ袋がありましたがどちらもよい。
新しいものと伝統、そして受け入れやすさを取り込んだ素晴らしいデザイン。
こんなデザインしてくださった生徒さんに感謝です。
ありがとうございます。






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仙台駄菓子の熊谷屋がある場所はこんなところです

2014/1/15

地下鉄仙台南北線北四番丁駅から3分ほど、熊谷屋がある木町通二丁目、ここは昔の名を北鍛冶町という。
仙台藩の時代、店の前の通りは「奥州街道」といい、ここから二日町そして国分町の芭蕉の辻へとつながりさらには江戸まで続いていました。江戸時代の五街道のひとつで白河以北は参勤交代の交通に使われるなど交通の要所でありました。
今は私の子供のころとは(30年ほど前)すっかり街並みも変わってしまったが昔は北鍛冶町商店街として今よりも多くのお店がありました。
ちょっと現在の写真を見ながら30年ほど前の風景を思い出しながら散策してみましょう。
まずは国道48号線を挟んで二日町方面。向かって右手のLAWSONは最初サンチェーンでした。
変わって左側の角の三階建ての建物はかなり古く、当時すでに年数の経ったような建物でした。そしてその焼肉屋(ジャント)さんがある場所には八百屋さんがありました。しかもそこのオヤジさんはプレートのついた市場の帽子をかぶりジャリ銭などのお金は吊るされたザルの中。時代の流れでビニールのレジ袋が主流になってきた頃でも四角い紙の袋でザ昭和の八百屋という感じでした。

ちなみに奥の「花火」と書かれたビルは仙台七夕花火祭にはかかせない芳賀鉄砲火薬店で、シドニーオリンピックの花火も手掛けた名工です。
それでは北鍛冶町に入り、現在セブンイレブンがあるところは昔エッソのガソリンスタンドでした。
その反対側の不動産屋さん(ハートフルハウス)の建物はもともとケーキ屋さんの時のものです。当時ショートケーキが120円くらいの時代。現在は瑞鳳殿の入口にお店があります。

その後ろのマンションは以前はさまん商店という雑貨屋さん、小さなホームセンターと言ったところでしょうか。
下の写真で手前の木の辺りが先ほどのマンションのところでその奥隣のコインパーキングの場所には昔魚屋さんがありました。大泉魚店さんといい、創業天保5年。
さらにその奥には小さな下駄履物屋さんがありました。
そしてその奥隣に熊谷屋。

現在熊谷屋の奥隣は手前に駐車場、奥にアパートなどの建物ですが、駐車場部分には朝日園というお茶屋さんがあったんです。
その隣は洋服の仕立て屋、パーマ屋さん。
写真で車が2台駐車しているところは中地畳屋さんでした。
残念ながら今では全部なくなっていまいました。

電柱手前黄色い看板の建物は現在2階が学習塾ですが向かって左側の白い方の1階が昔、ハンバーグ屋さんで、今では有名になった支倉ハンバーグの本店で愛子に移転しましたが残念ながら愛子も閉店してしまいました。とても美味しかったんですよ、同じような味は大学病院向かいにある支倉ハンバーグでも味わえます。
当時北四番丁から北六番丁までの間の唯一の飲食店だったのでは。

熊谷屋の向いは(滝廉太郎作曲した)「荒城の月」の作詞をした土井晩翠の生家があったところなんです。(現在の薬局)
その隣の骨董雑貨屋のくじらやさんはその前はウルマ商店という古い商店で果物や缶詰ほか生鮮以外の食品を扱っていたと記憶してます。(建物はそのまま)
その隣が今井時計屋と加藤硝子店。(現在は建物ありません)その空地(駐車場)の隣が伊澤竹細工屋さん、昔はいろいろと竹細工を作っていましたが現在は仙台七夕の玉の骨組みを作っています。(多分今年の七夕に向けてもう作り出していると思います)

上の写真で島津布団店の隣は映画館のフォーラム。できた当時はこんなところに映画館⁈と思いましたが、今では人気の映画館となりました。上は伊澤竹に雀ビルというマンションでもともとここは「伊澤竹に雀本舗」という造り酒屋でした。
その向かいにある台湾料理の店(海鮮館)は以前小山書店だったところを改装して料理店に(最近閉店してしまいましたがここの激辛台湾ラーメンは好きでした)、駐車場を挟んでその先の小さな建物は伊勢屋精肉店だったところで、コロッケがとても評判でいつもお昼には売り切れでとてもおいしかったのですが、残念ながら店主が体調を壊し閉店となり今では幻のコロッケとなってしまいました。今でも世界一安くておいしくいコロッケだったと私は思っています。


映画館フォーラムの斜め向かいの角のお店は昔は10円20円の駄菓子屋さんで子供の頃よく遊びに行きました。その後コンビニが珍しい当時、近所では第一号のコンビニのサンクスになりました。(当時ものすごい出来事だったと記憶しています)
特にここ北五番丁まで昔はかなりお店がありその裏にも多くの小さな家がひしめき合っていました。奥に長いとはいえ現在駐車場になっているところを見るとここに何十軒もの世帯が暮らしていたと思うとあらためてびっくりです。
そしてこちらが地元スーパーのITO。新鮮な野菜や魚がおいしい!現在地中海風の外装ですがお店を構える前は行商して市場で仕入れたものを売って歩いたそうです。

相当昔の写真がこちらです。ほぼ定点観測です。「伊藤八百屋」と奥に「ミドリ美容院」が見えます。

ITOスーパー向かいのタイ料理店サバイサバイ、見た目入りづらい外装ですがとてもおいしいですよ。
これより北は戦災から免れたため古い建物がところどころ残っています。

1985年の木町通二丁目の写真です。


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熊谷屋がアニメ映画「Wake Up, Girls!」の作品中に出ています。

2014/1/13

アニメ映画「Wake Up, Girls!」には熊谷屋ほか仙台市のさまざまな場所が使われています。 またこの映画は4番目の「仙台シネマ」にアニメでは初めて仙台市より認定されました。

地元でも大いに盛り上げていきたいのでぜひともご覧いただければ幸いです。

本作品は映画とテレビ放映があり上映映画館、放送局日程等の詳しい内容はこちらをご参照ください。http://wakeupgirls.jp/onair.html

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熊谷屋がアニメ映画とテレビ作品に出ます

2014/1/12

1月10日(金)仙台MOVIXで行われた

「Wake Up Girls! 七人のアイドル」の

上映会&舞台挨拶に行ってまいりました。





アニメ「Wake Up Girls!」には熊谷屋ほか仙台市のさまざまな場所が使われています。

またこの映画は4番目の「仙台シネマ」にアニメでは初めて認定されました。地元でも大いに盛り上げていきたいものです。



ストーリーはこのような感じです。

仙台で活動する弱小プロダクションの所属タレントがついにゼロになり、巻き返しをはかるためにアイドルユニットの結成を思い立つ。6人の女子高生をオーディションで集めるが、果たしてうまくいくのか…。







なおテレビシリーズは仙台では

1月12日深夜25:25から毎週日曜日放送です。是非見てください!









詳しくはこちら↓

http://wakeupgirls.jp/onair.html


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仙台藩第4代藩主綱村縁の二本松

2014/1/6

以前四ツ谷用水を辿った時に見た松の木

ここは土橋通沿いにある宮城県看護協会会館・看護研修センターの敷地で、その昔仙台藩四代藩主伊達綱村公が水鳥を飼っていた御飼鳥(おかいどり)屋敷があった跡で、当時の松が現在もなお残っているということでとても感慨深いものがありました。
しかしながら、先日見た時には無くなっていてとても驚きました。少し前に松が病気にかかっているという話を聞いたことありましたがまさかこんなに早く無くなるとは…。

宮城県看護協会会館・看護研修センターで話を聞くとやはり2013年の11月30日にやむなく切ってしまったそうです。
仕方が無いことです、その松を見れただけどもよかったと思うしかありません。
よく見ると切り株が二つありました。説明文には「二本松」と書かれており、そもそも二本あった両方とも枯れてしまったということなります。


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仙台を舞台としたアニメ映画「Wake Up Girls!七人のアイドル」間もなく公開!!

2014/1/2

「らきすた」や「涼宮ハルヒの憂鬱」でアニメ界では著名な山本寛監督。
以前「かんなぎ」という作品で七ヶ浜および仙台を舞台とした作品を作られましたが、
今回は仙台の街中を舞台とした作品で、アイドルが成長していく過程を物語にした作品
「Wake Up Girls!」が2014年1月10日より東宝系(仙台ではMOVIX)で公開上映されることになりました。
テレビシリーズもテレビ東京系列で(宮城は仙台放送)で同じころ始まるのでぜひご覧になってください!
アニメの背景にはリアルに仙台の街・建物が出てくるそうで、熊谷屋もその中に出てくるそうなので楽しみです。

Wake Up Girls!のみなさんが2013年の夏に仙台に来られた時のこと、市民広場の七夕飾りに願いを書いた短冊をつけたということで写真におさめてみました。
願いが叶うといいですね。応援しています。
山本寛監督

吉岡茉祐ちゃん

永野愛理ちゃん

田中美海ちゃん

青山吉能ちゃん

山下七海ちゃん

奥野香耶ちゃん

高木美佑ちゃん


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伊達政宗公の愛馬

2014/1/1

わが家には中学生の娘がいましてテニス部でよく青葉山 テニスコートまで車で送っていくことが多いのですが、 駐車場の隅に目をやると何やら 鳥居がありました。それは細く小さな鳥居で、奥にいくつか同じものがあり、朽ちてるものもありましたがちょっとした京都の伏見神社みたいにも思えました。(写真は夏に撮影したものです)


草木が生い茂って少し気味の悪い感じでしたが 入って小径を辿って行くと小さな祠がありました。その左脇には石碑があり、そこには「五島馬頭観世音」と刻んでありました。
五島馬とは一体なんだろうか。


あとで調べたところ、五島馬とは伊達政宗公の愛馬だそうです。
小牛田の後藤家より政宗公に献上した馬で後藤家から献上された黒毛の馬だったので後藤黒(「ごとうこく」と読むのか)と呼ばれた。後藤黒に政宗公が乗り、戦に出ると必ず勝つと言われるほど名馬だったそうです。
ところが大阪の陣にはすでに老馬になった後藤黒は連れて行かれませんでした。それを嘆き後藤黒は本丸の崖から身を投げたそうです。
政宗公は後藤黒が身を投げた崖の下の蛎崎(現在の川内追廻)に葬り馬上(うばがみ)蛎崎神社を建て追廻馬場の守護としたという。
これが青葉山テニスコートの脇(青葉城のすぐ下)にある神社だったのです。
その後明治4年に、片平丁の良覚院跡に移転して、五島墓(ごとはか)さんとして親しまれ、また子供の馬脾風(ジフテリア)除けの信仰があるということです。(片平の馬上蛎崎神社境内説明板より)



後藤から五島へとどこかで変わっていったのでしょうね。
ところで青葉城にある伊達政宗公の騎馬像の馬はもしかすると五島馬がイメージなのかもしれませんね。

ということで今年は午年、馬にちなんだ話題を書いてみました。


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勾当台とはいかに

2013/12/5

勾当台ってよく考えたら変な名前ですよねぇ。仙台に生まれた時から住んでいて今まで普通に勾当台公園って呼んでいました。

ところで仙台には市街地を横断する三つの主な道路がある、
青葉通、
広瀬通、
そして定禅寺通。
青葉通はわかる、杜の都仙台だから。
広瀬通もわかる、広瀬川流れる岸辺〜♬
定禅寺通の定禅寺ってなんだ?お寺なんかどこにもないぞ。
昔はあったんです、しかも重要な場所に。
現在の勾当台公園の裏あたりに定禅寺というお寺がありました。それは青葉城から見て鬼門に位置する場所にありました…しかしながら明治になって…明治6年に廃寺なってしまったのです。
 古刹(こさつ)定禅寺は京都三宝院の末寺で、永正年間(1504~21)に融済法印を開山とした真言宗であった。
 伊達政宗が仙台開府に当り、城の鬼門にあたるので、真言密法の祈願時として定めた。寺領六十六石を給して着座格に列し、仙台における真言宗三寺の一として重きをなした。住持はしばしば藩主の連歌の席に連なるなどのことがあり、伊達家の帰依も篤かったが、宝永五年(1708)正月の大火に堂宇がことごとく炎上した。さらに明治維新後は藩の外護(げご)を失って衰頽(すいたい)し、かつ明治六年に至り仙台鎮台病院をここに移すことになったので、ついに廃寺となった。定禅寺跡には戦災(昭和二十年七月)の時まで、古木として有名な定禅寺桜があった。
 定禅寺通は本材木町からこの定禅寺門前に突き当たる通りということから起った地名である。
(仙台地名考 菊地勝之助著より)

定禅寺に続く道として定禅寺通という名が残ったのです。定禅寺は現在の勾当台公園の裏の方にあったそうです。
で、危なくスルーするところだった勾当台公園の勾当台、よく見ると変な漢字の集まりですね。勾は勾配の勾?当はあ当る?台は公園の奥が高台になっているが…。よくわからない。
調べてみると、勾当とは盲官の位階の一つで、上から検校、別当、勾当、座頭の順でした。
(※盲官:盲人で琵琶・管弦・鍼・あんまなどを業とした者に与えられた官名。)
座頭市は座頭の市さんだったんですね、なるほど。
勾当台とは花村勾当という盲人の狂歌師からきた地名だそうです。
花村勾当の屋敷があった場所で芭蕉の辻から見て高台であったため勾当台と呼ばれるようになったということです。確かに公園の奥、野外ステージがあるところは急に高くなっている。屋敷は現在の公園の東側から北側の高台にあったそうです。
花村勾当という人物は
ある時伊達政宗に名前を尋ねられると
「なに一字 ちがいありとて ことごとし きみは政宗 われは政一」
と即興の歌で答えた。この粋な返しにとても気に入った政宗は、その狂歌の才を愛でて、勾当の役職と屋敷を与えた。
現代だったらこのステージに上がってうたうのか(笑)ある意味聖地?

不思議な地名を紐解くと意外なおもしろいことがわかりますね。
ちなみに現在の勾当台公園は以前ブログに書いたように、地下鉄の開通に合わせて道路を作るために削られました。
削られた…、正確には分断されたのです。
昔の航空写真を見ると南西角の部分が今もなお残っているのです。
それはどこかというと毎年光のページェントで定禅寺通りの角に聳え立つ木に大きな(au協賛の)電飾がつけられてますよね、その木こそが以前の勾当台公園の南西角にあったヒマラヤシーダなのです。場所は変わっていません。
昭和50年の勾当台公園

昭和59年の勾当台公園(地下鉄南北線工事の様子)

現在の勾当台公園

今年の冬はまた違った感じで光のページェントを見ることができそうです。
【おまけ】
勾当台公園の一部には「古図広場」というところがあって昔の養賢堂の門の前に位置します。またそこには昔流れていたという四ッ谷用水の復元水路があります。単なる憩いの池じゃないんですよ。
古図広場という名だけあって林子平の銅像があったり、昔の通りの名前の地図があったり、また仙台城下をイメージした立体的な地図があります。ちょうどバスの停留所の裏、もしくは地下鉄の出入り口にあるので人は通るのですが通り過ぎる人がほとんどです。ちょっと立ち止まってちょっとの間、昔の風景を思い浮かべてはいかがでしょうか。


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