仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

へくり沢事業報告

2014/5/9

5回の作製作業を経て、ついに完成したへくり沢の模型。
3月29日に内々でお披露目会が行われました。
マップテクノの安斎さんと
作製に携わった有志のみなさんが集まり、完成した地図を近くから、もしくは全体的に、はたまた広瀬川から山側からといろいろな角度で眺めてはここはどうだと議論をしたり説明をしたり話が大変盛り上がりました。

 

 


現段階では完成したもののまだ仕上げが残っている状態でこのあとこの上からニスを塗ったり、橋を(立体的に)かけたりされます。ここから先はマップテクノさんにお任せですが。




そして4月26日には柏木市民センターにて事業報告会が行なわれました。
まずは岡崎修子館長さんがご挨拶と昨年の9月より開始されたへくり沢事業の報告がなされました。
第一回目の仙台市博物館市史編纂室長の菅野正道氏の講座から~東北文化学園大学準教授八十川淳氏~東京スリバチ学会会長の皆川典久氏の現地調査までを説明。

マップテクノさんや有志のみなさんの他にも興味がある方が参加し、またみちのく博物学団の方2名がオブザーバーとして参加。

そして東北大学の地学ゼミナールの学生さん二人が彼らの観点からスライド(自分たちでへくり沢をあるいて撮った写真)を交えてへくり沢について説明や見解を述べてくれました。

 




河川争奪など学生ならではの見解なども聞けてとても興味深かったです。
・八幡小学校の裏辺りは昔深い沢だったが現在ではまったく形跡がわからない(実はこれは戦後の瓦礫処理で埋め立てられたため高低差が無くなった)
・へくり沢なんて知らなければ存在自体気づくことはむずかしいだろう。
・春日神社辺りでは沢は浅く下流に行くほど深くなるのは上町段丘の地層が硬いものだったからではないか。
・実際の歴史を知ることもおもしろいが、自分なりに仮説を立てて想像するのもおもしろいと思う。だから合っているか間違っているかの前にそれがたのしいのだと。

特に最後の考え方が共感を覚えました。まさにその通りだと思います。楽しさはそこにあると思います。
へくり沢の河口


橋が架けられました。


今年度の事業は本当のへくり沢のジオラマを造ります。
今野喜一さんの描いた「昭和15年頃の春日神社周辺の様子」(春日神社境内に設置)をもとに本物のジオラマを作製いていきます。興味のある方は柏木市民センターへお問合せください。


コメント (0件)

コメントする 

石巻被災地訪問

2014/5/7

石巻訪問事業

私は仙台北法人会の青年部会に所属していまして、その中で復興支援委員会による『被災地(石巻・女川)訪問・交流事業』に参加して現状を視察してきました。

3月の8日9日の二日間でちょうど3.11に奇しくも近い日程で行くことができました。参加人数は16名ほどで、天気は2日間とも晴天に恵まれました。

1時に仙台を出発し2時過ぎ、初めは宮城エキスプレス(株)様を訪れました。
ここは石巻市で三番目に津波避難ビルの認定を受けた建物で建物内には震災に関連する写真や新聞記事などが展示されている階があり、それらを見ながら宮城エキスプレスの方にお話を伺いました。避難ビルというだけあってヘリポートも設置されていました。
宮城エキスプレス(株)外観


石巻日日新聞社の壁新聞


小学生の手作りマップ

 


宇都宮光博常務より説明を受ける


ヘリポート



次に向かったのが石巻ルネッサンス館。ここで石巻法人会青年部会メンバーと意見交換会。
石巻法人会青年部会メンバーの(株)ノーズジャパンツアーズの山田様からスライドを交えた体験談を聞き、津波の際の状況、社員への指示、そして会社が現在に至るまでの苦労をお話ししていただきました。


会社という側面から震災について話を聞き、生々しい話もあり改めて今までメディアで知り得た苦労とはまた違うものを知ることができました。



その夜は石巻法人会青年部会さんと懇親会を開き石巻の現状、仙台市内の現状、そして我々がやれることなど意見交換をしながら、いろいろ問題を抱えている中で彼らは悲観的にならず前向きに生きていることよくわかりました。


翌日二日目は石巻法人会青年部会会員である(株)松弘堂の松本様に石巻〜女川で被害の大きかったところを案内してもらいました。
まちなか復興マルシェから出発し、すぐ裏手にある日和山に登りそこから眼下に見える石巻の街の状態を確認しました。



日和山の裏側と違い山より海側の地域は被害が激しい、裏側は日和山のおかげである程度津波の威力が半減したのだろう。

 



その後女川に移動。
高台にある女川町地域医療センターにから女川の街を望む。
メディアで何度もこの場所からの映像が流れ知る人も多いでしょう。
実際津波は海抜16mにあるこの医療センターの1階まで押し寄せたそうです。

 

 



瓦礫ほとんど撤去が完了した今でもこうして土台ごと横倒しになった建物はいくつか残っていました。3年経った今でも復興はまったく進んでいないという状況でした。

再び石巻に戻り松本様 が取りまとめをしている(社)石巻元気復興センターの事務所に場所を移し震災当時のお話や石巻の街の復興のために尽力しているお話を聞きました。



その中で石巻元気復興センターでは地元の企業を巻き込んで商品販路拡大してきて、復興マルシェはもちろんインターネットからも購入できます。
http://ishinomakinet.com/genki/
我々も復興マルシェでお土産を購入し石巻にお金を落としてきました。
また今回参加できなかった仙台北法人会の会員にも事前に注文を取り購入してもらいました。



これからもわれわれにできることを考えていきたいと思います。
仙台北法人会青年部会では震災孤児のための募金活動を行なっております。街で我々の募金活動を見かけた際はぜひご協力くださるようお願いします。



コメント (0件)

コメントする 

地域の地図模型(宮城野区)

2014/5/6

「あなたのオモイ
それぞれのカタチ」という震災復興交流事業が3月1日から9日間、宮城野区文化センターでありましたので行ってきました。
震災復興についてまちづくりについて考えるというものですが、その一環としてその地域の地図模型も展示されていました。

今回の目的は榴ヶ岡と原町周囲の地形模型を見ることでした。
その時柏木市民センターでも似たようなのを製作していたので参考までに見に行きました。
大きさは柏木市民センターで製作しているものの1.5倍くらいで
思ったより起伏に飛んだ地形でした。
榴ヶ岡(丘)というくらいですから当然かもしれませんね。
DSC_0017
DSC_0018

地図は柏木市民センターと同じく昭和33年地形図をもとに製作されていました。
尺度は3000分の1。
等高線の間隔は1m。←ここは柏木市民センターで使用した地図はは2mですね。
DSC_0021

これもマップテクノ仙台さん指導なので同じような感じで作られています。
ただ等高線の間隔が1mなのでサイズが大きいのでしょう。

そこで配られたチラシに地図の楽しみ方が書いてあったので紹介します。

☆場所を見つけてみましょう!
①仙台駅(懐かしい、列車のターンテーブル(転車台)が残っています!)
②丸光デパート(現在の「さくら野百貨店」までの変遷は、全部言えますか?)
③X橋(その遺構としての価値が、現在高まりつつあります!)
④キリンビール工場(テニスクラブなどの名残は、現在も残っていますが…)
⑤三島学園(現在は虹の丘に移転)
⑥仙台赤十字病院(現在は南目館に移転)
⑦宮城県自動車運転者試験場(現在は、七北田に移転)
⑨仙台精密材料研究所(他にも、製紙工場や研究所が集まっていたようです!)
⑩榴ヶ岡遊園地(遊覧電車の軌道が記されていますが、正式名称は?)

その他にも☆地形を感じてみましょう!ということで立体地図模型から感じ取られる今と異なる地形のポイントなども記されていました。

事業イベント開催中は他にも別な事業で作製された立体地図模型が展示されていました。
『江戸時代に描かれた「野初絵図」の山並みを再現!』
DSC_0024

「岩切城跡地形図」
DSC_0027

榴ヶ岡周辺ジオラマの模型は普段でも展示してあるということらしいので時間のある方は見てみると面白いでしょう。
※展示されているかは事前に宮城野区文化センターに確認してから行ってください。


コメント (0件)

コメントする 

タイから遥々と

2014/5/1

タイのテレビ局の取材を受けました。
海外メディアからの取材は初めてです。

この取材の番組はレポーター役が旅をしながら体験を交えてその土地の素晴らしさを視聴者に伝えるという内容です。
タイからの取材班はレポーター役の旅人1人、カメラマン1人、カメラマン&アシスタント1人の3名でした。
さらに通訳のコーディネーターの方1人、仙台市経済局の国際観光部の方1人、近畿日本ツーリストの方1人の3名。

タイの一行は取材当日仙台空港に着いたばかりで先に亘理は山元町のイチゴ農園などを取材してきたあとでこちらには夕方4時頃に到着しました。

レポーター役の方はタイで有名な俳優さんだそうで、レイ・マクドナルドさんという方です。
彼のレポートした映像がアップされているページはこちらです。「第1回アジア旅番組国際グランプリ」でグランプリ賞(北海道知事賞)をとった作品です。
(クリックするとアジア旅番組国際グランプリのサイトになります)
f0068891_93646

旅をしているという設定なので彼はリュックを背負ってお店にやってきます。
(暗くてわかりづらいですが左側がカメラマンで表から歩いて入ってくるところを撮っています。ちなみに手前の人は通訳の方です)
f0068891_10314375

一方的に彼がどんどんレポートを進めていくという形なのでとくに私との絡みはあまりなかったです。話しているタイ語はさっぱりわかりませんでした(笑)

一通り店内での撮影が終わり、今度は工場に移動して駄菓子造りの体験です。
まずは白衣と帽子をかぶるところから撮影開始。(そこから撮るんだぁ)
いろいろしゃべりながら白衣を着て、帽子は斜めにヒップホップ調にかぶって、「どうだい?似合ってる?」という顔をしてこっちを向いてきました。(笑)

体験してもらったのは小荒ねじり造りのねじる作業。これは見た目よりけっこう難しいんですよ。
f0068891_9533739
造りたては柔らかいので直接手でねじると力ですぐにくずれてしまいます。ですので布に巻いて微妙な力加減でねじっていくのです。

職人の手さばきをまねながらなんとか形を作っていました。
f0068891_1031459

最後はみんなで記念写真を撮らせてもらいました。
f0068891_10314451
※ちなみにこの映像は日本では流れません

 


コメント (0件)

コメントする 

「ふしぎ!発掘!発見! 不思議な地形をジオラマにしよう」 その2

2014/4/3

「ふしぎ!発掘!発見!
不思議な地形をジオラマにしよう」と題して行われた作業ですが柏木市民センターの館長さんいわく今作っているのは最終的なジオラマではなく地形模型であると。
これが完成した後、へくり沢周辺のジオラマ(プラモデルの背景にあるような感じのイメージのもの)を造りたいそうです。
まだまだ道のりは長い!
今回の模型は昭和33年の仙台の
地図で1/3000のものです。
ここまで現在のような正確な測量が行われた地図でもっとも古いものだそうです。
1月の末からほぼ毎週土曜日に集まり約2時間ほどずつ作業をして4回の予定が間に合わず計5回集まりました。

2月15日は前の週に続く記録的な豪雪のなかみなさん集まって作業をしました。

ゲジゲジに見える部分も太線が引かれていますのでカッターで切っていきます。とても細く、のちに使われるパーツなのかどうかわかりませんが、途中で折れてしまわないように切り出します。

なんとか切り出しました。新坂通のあたりの部分ですね。

ブルーシートの上の地図はおそらく一番下の土台から二番目の地図でしょう。切られている部分が少ないので。28mはそのパーツの標高の数字です。

4回目以降の作業は主に切り終えたパーツを重ねて貼り合わせる作業でした。
各自担当し、切り離し終えた地図が広げられている。元は同じ昭和33年の地図(現在の宮城一高あたりを中心とし北は北山あたり西は国見あたりまで)で、標高によって切る場所が異なり一枚で5つの高さを切り分ける。
地図の下に敷いている段ボールに書かれている数字は等高線の数字でそれを目安に各地図から等高線に準じたパーツを探して貼り合わせます。


20m間隔の等高線を一枚から切り出す。それらを2mごとに重ね合わせていく。
指示する人、各パーツを集める人、貼り合わせる人に分かれ作業は進む。パーツを集めるのはまるでトランプの神経衰弱をやっているような気分です。


裏側から見ると下の方に隙間があるのがわかります。これは1枚の地図から複数の等高線のパーツを切り出したのでこのようになっています。

最後の回は時間の関係で完成を見ずに退席したのが残念でしたが、だんだんカタチになっていく様子を見てると楽しみになってきました。


コメント (0件)

コメントする 

ひよんの木

2014/3/20

昭和24年度版復刻JTB仙台市街圖の地図を見ていると大学病院の敷地にヒヨンノ木という表記があった。なんとなく見過ごしてしまうような小さな字ですが、ちょっと待てよ、なんで木の名前がわざわざ地図に載っているのか?と疑問に思いました。何か理由があるはずそして今もあるはずと確信しました。

しかし何度地図のあたりを歩いてもそれらしき木も看板も無い。
もしかしてもう無くなってしまったのか?東北大学に問合せたら教えてくれるのか、などとしばらく考えていました。

東北大学付属病院の脇の通り北四番丁-大衡線の通りは毎日通る道。車からよく見ているはずの木。ふと気が付いてあの木はずいぶん大きな紅葉の木だなぁ、近くから見てみたい。
と思い普段車で素通りするところを車を降りて近くに行ってみました。なるほど立派な木だ。これなら仙台市の保存樹木にでもなってそうなものだ。よく見ると保存樹木の看板が傍に立っていた。やっぱり…。


しかしそこには「紅葉」ではなく「ひよんの木」の文字が記載してありました。まさかこれが 紅葉ではなく「ひよんのき」?
…ではなく、隣の木が「ひよんのき」だったのです。

地図の位置とはずれているので移動したのかもしれませんがおそらくこれがあのひょんの木でしょう。
大学病院の歴史とこの木がどのように関係しているのかはわかりませんが、同じ歴史を刻んできた木であることには間違いありません。

今さらですが、「ひょんの木」という名前は変わった名前ですよね。そもそも変わった名前だからこそ目に止まったのかもしれません。
ひよんの木(ヒョンノキ)は正式名称をマンサク科のイスノスキという植物です。その葉にアブラムシの仲間が作る虫コブがある。虫コブとはアブラムシの仲間が葉に卵を産み幼虫が成長する過程で葉の細胞が異常に膨れできたコブのようなもので成虫になる時に開けられた穴から息を吹き込むとヒューヒューと音がなるのでその名がついたそうです。
ヒューヒュー…ヒョンヒョン…ひよんの木。

追記:
このひよんの木は「要説 宮城の郷土誌(続)」によるともともと西南部、四国、九州が自生地で、仙台で自然生していない植物であると、また栽培できる北限が仙台でこれだけ旺盛に繁茂するのは珍しいそうです。東北大学附属病院は藩政時代、武家屋敷でその家の人がひよんの木を移植したものらしい。元の場所は大学病院構内関口外科〔第二外科。関口→桂→葛西外科〕と産婦人科病室との中間の東端にあったのですが両建物は、昭和 50 年代の初めには新設棟に移り、取毀し撤去されたようなので、恐らく木も工事に伴い移動したと思われます。
なぜ移動までしてひよんの木を残したのかというと東北大学医学部第二外科教室の同門会の名が「瓢木会」といい、先に述べた建物の前にあったひよんの木から名をとったものだったからでしょう。
こういったことから東北大医学部のひよんの木は歴史的にも植物学的にも大変珍しいものでもあるといえるでしょう。

木のある場所の敷地は歩道より高い位置にあって意外といつも通っていても意外と気づきにくいかもしれませんが時間のある時ちょっと立ち止まって見るのもいいと思います。


タグ:,

コメント (2件)

  1. 鈴木博 より:

    東北大学第二外科同門会の名称「瓢の木会」の由来ともなった「瓢木」は少なくとも第二外科の開設当初の大正初期より第二外科医局の入り口に立っていたと思われます。昭和30年代末に病棟、医局とも移転しましたが「瓢木」はそのままに保存され、移植など位置の移動はありません。
    隣の紅葉の木のほうが樹勢が盛んで成長も早く、かっては「瓢木」のほうが大きな木でしたが、今では紅葉の木に圧倒されてしまっているような状態です。大学に紅葉の木の枝打ちをお願いして「瓢木」にかかる枝を落としてもらったこともありました。今後とも大切に見守っていきたいと思います。

    1. admin より:

      鈴木様
      コメントありがとうございます。「瓢木」は位置の移動などは無かったのですね。地図上の位置は実際の場所よりかなり西側に位置していますが、これは間違いというか適当な印なのでしょうかね。
      また、当時隣のモミジの木のほうが小さく「瓢木」のほうが大きかった樹齢もすごかったのでそちらのほうが目立っていて、現在では大きさが逆転したということを知りますと、いろいろなことが納得できますね。
      今では少々目立たなくなってはしまいましたが、これからも東北大学病院のシンボルとして大切にしたいですね。

コメントする 

へくり沢「ふしぎ!発掘!発見! 不思議な地形をジオラマにしよう」 その1

2014/2/28

柏木市民センターで昨年4回に渡り「へくり沢」についての講座が開かれましたが、その集大成として「へくり沢」のジオラマ模型を作ります。

※「へくり沢」とは昔、国見の辺りを水源とし八幡町を縦断する深い沢のことを言い、現在は広瀬川へとそそぐ暗渠となっている。この深い沢のため仙台藩開府当初は町の中心部と八幡方面が寸断され土橋ができるまではかなりの遠回りを強いられていた。







昨年の講座はたくさんの方が出席しましたが、ジオラマ作業は約8人と有志の方々で行われました。





我々の他には柏木市民センターの館長さん等2人、そして今回指導してくださるのが仙台マップの安斎信行先生です。



ジオラマ作製は4回に分けて1月の25日からほぼ毎週土曜日の午後2時間余りずつ行われました。



初日は安斎先生の方から作業について簡単な説明をいただきましたが、何せ私も含めみんな初めての体験なのでなかなかイメージを浮かべるのが難しいようでした。



昭和33年の地図をもとに作るわけですが、その地図を800mm四方厚さ3mmのスチレンボードに貼り合わせ、同じものを60枚くらい用意します。(もとの地図は25枚で、そこから60の標高を取り出す)



それらのボードを一定の間隔の等高線で切っていきます。それぞれのカットしたパーツを重ねていき完成させるのですが、これが大変なようです。



<模型製作仕様書>より

8、操作手順

1、等高線のトレース

高い方から重ねる地図

1図 140m、120m、100m、80m、60m、

2図 138m、118m、98m、78m、58m、

3図 136m、116m、96m、76m、56m、

4図 134m、114m、94m、74m、54m、

5図 132m、112m、92m、72m、52m、

6図 130m、110m、90m、70m、

7図 128m、108m、88m、68m、

8図 126m、106m、86m、66m、

9図 124m、104m、84m、64m、

10図122m、102m、82m、62m、



低い方から重ねる地図

11図 22m、12図 24m、13図 26m、14図 28m、15図 30m、

16図 32m、17図 34m、18図 36m、19図 38m、20図 40m、

21図 42m、22図 44m、23図 46m、24図 48m、25図 50m



意味の分からない数字が並んでいますが、10図から順に上に見ていくと122、124、126…と2mずつ増えているのがおわかりになると思います。そして高い方から重ねる地図では4~5つの標高を切り出していきます。

(今はわかっているから言えますが、最初は説明を聞いてもちんぷんかんぷんでした)



簡単にイメージを説明しますと、例えば富士山のジオラマを作ろうとすれば裾野の方からカットしたパーツを順に重ねていけばできると思うのですが、材料を節約するために1枚のボードから幾つかの等高線のパーツを取り出します。つまり裾野の部分をとるボードで上部分もとることになり、少ない枚数でより多くのパーツを切り出しそれらを重ねると富士山の内部が空洞になるのです。



これは事前に作成した簡易的縮小版。



一通り説明を受けたあと早速作業開始。各ボードには切るためのガイドライン(指定の等高線に沿って少し太めの実線)が引いてありますが、たくさんある等高線の中で密集してるところでは多少見づらい感はあります。



ペン型のカッターを手に切り込みを入れるが垂直に切るのが難しい。また切ったつもりでも下まで貫通していなかったり。





一回目は初めてだったので慣らしということで終了。でも次回からはカットするパーツの大きさは小さくなりますからと言われた。本当に難しいのは今回だけであとは比較的楽なのかと一安心。





しかし二回目は単純ではないのです。

次のパーツは起伏が多いので、つまり山がたくさんありその間に窪地もある、全てがなだらかな傾斜とは限らないのです。

また比較的直線に近いライン・滑らかなラインは比較的カットしやすいのですが、そもそも自然の地形なのでそういうものはほんのわずか。細かくうねうねとしたラインをひたすらカットしてい作業を強いられます。ゴミみたいな小さなものもパーツです。



その日は貼り付け積み上げ作業も同時に行われました。カット作業の合間に積み重ねられたものを見ると少しずつ実感がわきます。



作業にも熱が入り真剣です。完成するのが楽しみになりました。


コメント (0件)

コメントする 

あのレンガアーチがなくなる⁈ 通称 X(エックス)橋

2014/2/20

大正10年に造られたというX橋。
仙台の人には馴染みあるX橋、
仙台駅の北側にあり線路によって分断された元寺小路と名掛丁のそれぞれ東西両端を結ぶ形が>--<になっており、正式名称を宮城野橋という。
橋の両端が二股に分かれているのがXに見えることからX橋と呼ばれるようになりました。

(大正元年)

(昭和3年)
かく言う私も正式名称を知りませんでした。
宮城野橋は大正10年に当時高価なアスファルト舗装で造られ、戦後昭和36年に二代目ができたらしいですが、その際全て新しくしたのか部分的に造り直したのかよくわかりません。
したがってアエルの裏に位置するレンガでできた跨道橋すなわち宮城野橋西レンガアーチがいつのものなのかよくわかりません。
もし誰かわかる方がいたら教えてください。
後日仙台市の道路管理課管理係より返答をいただき、昭和36年に作られたものだそうです。
X橋の一部の使われなくなった石材は仙台駅東口にある塩竈神社の石畳に再利用されていることはあまり知られてないでしょう。


名掛丁藤村広場にあるモニュメント

X橋はもともと旧仙台城二の丸の第二師団と、歩兵第四連隊(現榴岡公園)や練兵場(現宮城野原公園総合運動場)との間を結ぶため建設されました。
現在新宮城野橋はほぼ完成に近い状態まで出来上がってきていますが、先ほどのレンガアーチ状の跨道橋は写真撮影時2月7日現在まだありました。
都市計画で宮城野橋が新しくなる、道路が広くなる、渋滞が緩和され便利になる。
しかしレンガアーチはどうなるんだろう?


このレンガ造りのアーチトンネルはとても味があって好きでした。そのまま当然残されるのだろうと勝手に思っていました。
しかしながら、先日それも壊されてしまうということを知人より知らされて大変ショックを受けました。
壊されるのもショックでしたが、壊されることが全く報道されないということです。
アエルの展望台から撮った写真を見ると現在片道が完成されてもう片方がちょうど跨道橋にぶつかるようです。


今も作業は進んでいます。

背の高いビルの裏にあるのでもしかしたら仙台の人でも知らない人が多いのかもしれませんが、数少ない仙台中心部の遺構がなくなってしまうのは大変残念なことだと思います。
※現在、仙台市の道路管理課管理係の話によると保存の有無に関して歴史的価値並びに保存方法を含め、総合的な観点より検討中だそうです。
また宮城野橋の延長線から一本入った元寺小路沿いに一軒だけあるお店の早坂陶器店は周辺の区画整理で2月いっぱいで移転するそうです。


タグ:,

コメント (0件)

コメントする 

さらば農学部

2014/2/18

北六番丁沿い、ちょうど勝山スケートセンターがあった場所の向かいに東北大学の農学部があります。そこは街中であるのに閑静で自然が多かったり、羊などが放牧されていて、それを見に近くの保育園児達がお散歩に来たりと憩いの場にもなっています。
また周辺には小学校や中学校などの教育機関も多い。


今度 東北大学農学部雨宮キャンパスの青葉山への移転により、現在の敷地が別な用途へと使われることになります。
昨年(平成25年)の4月に仙台市と仙台商工会議所と東北大学でもその敷地の活用と街づくりに議論が交わされ商業施設・居住施設・医療施設・オアシス空間などを盛り込んだ土地利用構想が考えられ、それに基づき施設などが設けられる予定らしい。
そしてこの度1月初めに入札が開始され同月31日にイオングループに落札されたことになったのは新聞などのニュースでも記憶に新しいと思います。
現在の農学部には旧制第二高等学校時代の建物があり、
現在でも入口の守衛室としては使われており大変貴重なものです。
屋根はマンサード風で北仙台駅の駅舎にも同じ様な形が見られる。
(計画によると残されるようです)

他にも旧体育館の建物がありましたが残念ながら守衛さんによると去年の春あたりに解体されてしまったそうです。
現在の様子(砂利の空地のところに建物はあった)

また戦後しばらく宮城県第一女子高等学校があったらしく、その碑も残してほしい。

また脇の雨宮堤通には雨宮神社(磐上神社)がひっそりとあり、その境内あたりには四ツ谷用水の名残で用水に架けられた橋が残っていると聞いたことがある。

実際見てみるとこれのことなのか。(白い部分)

四ッ谷用水は北六番丁を本流とし梅田川へとそそいでいく。
そして農学部の近辺にはその名残である欄干の標柱が残されている。
これは当時仙台市長だった島野市長に付属小学校4年生の児童たちが手紙を送って保存を懇願したことによって残されたものであるという。

今後どのように再利用再開発されていくのかはわからないが、四ッ谷用水を市民に知ってもらうチャンスとして、農学部跡地には四ッ谷用水の資料館などの施設をぜひ盛り込んでほしい。


コメント (0件)

コメントする 

さいか屋藤沢店の催事に出店します

2014/1/24

さいか屋藤沢店で行われる第8回 杜の都 仙台の観光と物産展に熊谷屋が出店しています。

■1月22日(水) ~ 1月28日(火)

■7階 催物場

http://www.saikaya.co.jp/FUJISAWA/tabid/83/Default.aspx

ずんだ餅の実演しています。



なにげにほとんど知られていませんが物産展でずんだ餅を初めてやったのは熊谷屋と味き屋さんなんです。



それは仙台から川崎に移り住んだ人たちに遠くの懐かしい郷土料理を味わってほしいという思いから、さいか屋の川崎店と横須賀店の二つの店舗で始まりました。



いつしかそれが現在よのうに全国に広まるきっかけとなり、今では冷凍で発送するところも増え、手軽に食べられるようになりました。



さいか屋藤沢店では搗きたてのおいしいずんだ餅を実演しているのでぜひ食べに来て下さいね。








コメント (0件)

コメントする 

オンラインショッピング カートの中身を見る