仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

新!?現存する最古の学問所

2014/10/4

岩出山の有備館に行ってきました。
ここへ行くのは初めてで、正直あまり詳しく知りませんでした。

ただ、岩出山は政宗公が仙台に入城する前の居城としたところなので何かあるだろうぐらいの知識で、有備館も伊達家と関連のある建物というぐらいでした。


行く前に有備館の場所を調べてみるが、いまいち場所がわからない。
なぜなら旧有備館の場所なら地図に載っているのに新有備館の場所がどうしても見当たらない。
しかたがなく有備館駅を目指し、そこで何か情報を得られるだろうと考えました。
有備館駅というくらいだから新有備館はそんなに遠くないのだろう。


駅に着くと昔仙台駅のステンドグラス前にあった政宗公の騎馬像がありました。



ふと周りを見渡すとなんだか駅らしくもない、観光案内所?
なんと向かいに有備館らしき敷地があるではありませんか。
しかしやはり「旧有備館」と書いてある。

有備館は震災後、修復のために改装工事をしているとは聞いていたので、シートに覆われた建物、おそらくこれが有備館なのだろう。
それにしてもなぜ旧有備館というのか?どうしてもモヤモヤするので受付の女性に聞いてみました。
すると 有備館とは建物の名前でしかも学問所として使われていた頃の名称だとか。もとは岩手山伊達氏2代宗敏の仮の屋敷でしたが登録の際の名称として、学問所として使われていた現存する建物としては日本でもっとも古く価値ある建造物ということでその名で登録になったとか。つまり元○○小学校の建物と同じ意味で旧有備館としたそうです。

やっとモヤモヤが解けました。
それにしても「旧」とは紛らわしいですね。他に史跡を調べてみたら建物などは皆 旧がついていました。

 



現在は建物が修復中で見れないということで庭園観覧は入場無料でした。
中庭にはさすが樹齢何百年という木々がたくさんあります。

 


池の向こう岸にシートで覆われているのが有備館です。



今度は工事が終わったらまたゆっくり来ようと思います。今度はちゃんと旧有備館目指して。

帰りに花山太右衛門商店で名物の酒まんじうを買って帰りました。とても香りよくて美味しかったです。

 


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日本初の公共図書館「青柳文庫」は仙台にあります

2014/9/2

先日たまたま一関博物館に行った時に
新一関図書館オープン記念でテーマ展が開かれていて
ちょうど学芸員が説明をしてまわっているところに参加することができました。

テーマ展の内容は「版木と和本の世界」というもので
かの大槻家の旧蔵していた版木を中心に展示されていました。
建部清庵の「民間備荒録」や大槻磐渓の「合衆国小誌」や蘭学の本、
そして田村建顕に関するものまで様々でした。

当時の製本する際の木版が展示され、中でも蘭学や詳しい地形を記したものは見てて気が遠くなるほど細かく彫られていました。もちろん1頁で色別に数種類作られます。これは元の絵を描く人より彫る人の方がすごいのではと思うほど見事なものでした。

学芸員の説明を聞いていると何か聞き覚えのある名称を耳にしました。
それは「青柳文庫」日本で最初の公共図書館です。

どこにあるのかと申しますと現在大きなビルが建っている仙台の一番町4丁目にある東二番丁スクエアの場所です(元仙台中央警察署)。


ここには看板と本の形をした碑があります。


一関に来て仙台のしかも近所の話を聞くとは思っていませんでしたので驚きました。
実は青柳文庫を作った青柳文蔵という人物は松川村(現一関東山町松川)出身だったのです。松川村は一関藩と仙台藩の境目で彼は仙台藩の人間で医業を営む家に生まれました。医師の勉強のため江戸へ行きましたが生活費などを稼ぐために仕事が忙しく、また本を買うお金もなく志半ばで医業の道を諦めざるを得ませんでした。しかしその後公事師(弁護士)になり、かたわら金融業で財をなすこととなりました。
お金がなく学問を諦めなければならなかった過去を悔やみ、これまで買い求めて来た書物を千部余り献上して文庫を創設しました。

当時の青柳文庫の建物(東二番丁スクエア建設の際展示されていたもの)
入り口のひさしは東山図書館の入り口に再現されています。
http://www.library.city.ichinoseki.iwate.jp/guide/higashiyama/index.html



過去に閲覧できる書庫はありましたが、みな城内や学内など限られた人しか借りることはできませんでした。
青柳文庫は仙台藩の医学校構内に創設されたものの身分に分け隔てなく学問を志すもは誰でも借りることができ、これが公共図書館の始まりとされています。(明治維新まで存続)

私は場所こそは知っていましたがどこの誰がどういういきさつで建てたのかまでは知りませんでした。公共のものだから公共の機関が建てたのだろうぐらいにしか考えていませんでした。
天保二年に創設され文蔵は天保十年に亡くなったので晩年のことでこれまでの悔しい想いが果たされたことでしょう。


しかし本来であれば文蔵の願いは郷里松川村に青柳文庫を創設したかったと。
文政十二年9月27日に仙台藩に提出された伺書にその旨が書かれていたことが大槻文彦によって記録されています。しかしながら藩に却下され仙台城下に変更になった。
文蔵は文庫の創設と同じ年に松川村に、凶作に備えた籾倉(もみぐら)である「青柳倉」を設けています。これは東山の百姓のうち困窮している者に低利で貸し付け、秋に収穫した物で返済し倉庫に蓄えることで、図書館の費用にあてたそうです。また万が一飢饉の際は百姓を救うためにそれらを使用することとしている。文蔵の郷里への想いがわかります。
ここでおもしろいのは「(飢饉の際は…)但し、一関藩領は除く」とあるところで、松川村は一関藩領と仙台藩領が混在しているところからそのようになっているそうです。

上記の願いを書にしたためた伺書は先に述べたとおりですが、この時一関博物館に展示されていた物は同じ内容で伺書より以前に書かれたと思われる内容のもので一関藩の留守居役を勤めていた須藤家に伝わる屏風の下貼から発見されものでした。
「乍恐以書付奉願候(おそそれながら かきつけをもって ねがいたてまつりそうろう)」
東日本大震災で建物を解体するにあたり一関博物館に屏風が寄贈され、痛みが激しかったため解体したところ中から出てきて見つかったそうです。
しかしながらいつ書かれたものか、文蔵の直筆なのか、なぜ一関藩の留守居役が持っていたのかはこれから調べて行くそうです。

いずれにせよ、たまたま行った博物館で震災で偶然見つかった資料をたまたま説明を受け、それが偶然近所の話で、仙台と一関がつながって…そんな一日でした。


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天皇陛下 仙台駄菓子お買い上げの光栄を賜る。

2014/7/25

この度天皇皇后陛下が宮城に行幸啓をなさり、被災し復興に向けて努力している地域を視察されました。 また陛下は南三陸や気仙沼を訪れた際に宮城県の物産品をいくつかご購入なさいました。 IMG_7241

 

IMG_72401日目の宿泊先のホテル観洋では県内の物産品が並べられ、一つ一つ天皇両陛下に説明がなされました。その中でお気に召した物はご購入されます。

また、展示される物産品は何でもよいというわけではなく宮内庁よりあらかじめ選ばれた物です。

 

震災後両陛下が宮城を訪れるのは2回目で2年前、ロイヤルパークホテルに宿泊の際に熊谷屋のくるみゆべしをご購入されました。

実は展示される物産品として連続して選ばれることはとても稀なのだそうです。 しかも、今回も当店の仙台駄菓子詰合せ(2,160円)を3つご購入いただくという光栄に預かりました!

 

とても幸せなことです、 仙台駄菓子は仙台になくてはならないモノ、 これからも精進して頑張っていく次第でございます。

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仙台の街中(まちなか)に村と村の境があるの? (荒巻村)

2014/7/22

二日町の裏の方にある公園内に小さな祠がある。
その名も村境榎稲荷明神。
村境って街中のこんなところが村境だったの?
どことどこの村境なの?

 



祠の傍にある石碑をみると
もともと荒巻村と小田原村の境にあった明神だったとか。
それが現在の仙台市役所の北東に祀られそこには大きな榎(えのき)があったそうです。そして当時 そこは荒巻村と仙台との境になっていたそうです。

仙台地名考によると
荒巻は荒牧とも呼ばれ北東は東照宮の小田原から東六番丁沿いに南は現在の荒町、芭蕉の辻を中心に米ヶ袋・川内、国見、現在の荒巻本沢〜杉山(台原)ということですからかなりの範囲だったのでしょう。
現在でも荒巻の地名が残っているところがあります。
北山の奥の荒巻本沢 荒巻中央 荒巻神明町の他
国見の 荒巻西雷神 荒巻仁田谷地 荒巻坊主門、
そして青葉山一帯の荒巻青葉。

仙臺開府の際荒巻村の一部を取り入れ、現在の仙台市役所の北東が村境になったという。

最初の荒巻の範囲を上記の説明に沿ってだいたいの範囲を描いてみると以下のようになるのか?(大雑把なので間違いもあるだろう)


荒牧は粗蒔(あらまき)で自然に生い茂った草原、なので荒巻は完全な当て字と言えます。字からも想像できるように荒牧は広大で良質の牧草地帯だった。
ここで陸奥の良馬が育ったのだろう。


話は戻り、榎の木は一里塚としても利用された木で、大きく葉もモコモコとしていて遠くからも確認できるからだろう。現在の仙台市役所の北東にあった榎も大きく御神木とされたのだろう。
村境には田畑や水利の権利をめぐり争いが起こるので道祖神などを建てて厄除けをするのが風習だったようで、この村境榎稲荷明神もそのような経緯で建てられたのだろう。
今もなおひっそりと佇み、商売繁盛の神様として町内会有志で毎年7月の最終日曜日に祭礼が行われている。

また、通町にある熊野神社は宮城郡荒巻村総鎮守。


以前の場所は不明ですが寛文7年にここに移されたそうです。
鎌倉時代からあるとうことなので
仙台でもそうとう古い神社だと言えます。
現在の社殿は享保7年(1722年)に建てられたらしい。
通町熊野神社神楽は仙台市の無形民俗文化財に指定されている。


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勉強会

2014/6/29

仙台北法人会 青年部会の勉強会に6月26日行ってまいりました。(エルパーク)

「継続的に売上を上げる組織営業の手法」という題で
講師としてプロセスマネジメント大学仙台校校長であられる沢田元一郎さんがお話をしてくれました。
勉強会には部会員も含め一般の方々もたくさん参加していただけました。

 



仕事を効率化させるためには、
きちっと明確な目標を立て、そこにたどり着くまでにはどのようなプロセスを踏まなくてはならないのか、数字などで具体的に明示し、社員に共有させ行動しやすく、継続的に続けて行くことが大切だということを学びました。

つまり曖昧な目標ではいけないということです。
かなり要約しすぎましたが、ネタバレになるのでこの辺にしておきます。

とにかくお話を聞いてて業種は違えど、わかりやすくとても勉強になりました。

会社を経営されてる方や管理職の方はぜひ聞いてみるととても勉強になると思います。
機会があればぜひ参加してみるといいです。

なお仙台北法人会青年部会ではこのような一般参加型の経営者向けの勉強会などの事業や社会貢献事業を行っております。

興味のある方は入会も随時受け付けています。
事務局はこちらから→http://www.yg88.com/

また今後の一般参加型の事業などもぜひ参加してほしいです。


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「架け橋 きこえなかった3.11」

2014/6/28

宮城県倫理法人会女性委員会の事業である映画上映会に参加してきました。

「架け橋 きこえなかった3.11」というタイトルの映画で監督は今村彩子監督です。

6月24日に仙台メディアテークにて行われたのですが、会場は満席でした!250名入るとのことでかなりの人数でした。

当日、今村監督と撮影に協力した宮城県ろうあ協会の会長をしている小泉さんのお二方がいらしていました。



映画は3.11の震災のドキュメントですが、今まで見たものとは見る視点が違いろう者を中心としたドキュメント映画でした。

実は今村監督もろう者で音の聞こえない者の立場に立って震災を見つめた映画でした。
つまり津波警報が聞こえない、テレビやラジオでは情報を得ることができないなどを様々な困難がありました。

今まで様々な震災のドキュメント番組などを見ましたが、ろう者を中心とした映像はいったいどんなものなのだろう?映像を通してきちんと伝わるのだろうか?という不安もありましたが、見終えた後むしろ今まで見てきたものよりとても素晴らしい作品だと思いました。

障害を持っている方も、しっかり震災から立ち直っているのを見て逆に自分達もしっかりしなければとも感じました。

ここでもちろん詳しく映画の内容を説明することはできませんが、ぜひ見るべきだと思いました。この映画は現在各地で上映されていますが、海外でも上映されるなど幅広く賞賛を得ています。

今後、仙台北法人会青年部会の事業でもこの映画の上映をする予定です。(11月)
その時はぜひみなさん見に来てください!


http://studioaya.com/


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資福寺の紫陽花

2014/6/27

仙台の中心部から少し北に位置する北山には昔からのお寺が多い。
その中に資福寺があります。

資福寺は別名紫陽花寺と呼ばれるほど紫陽花がきれいに咲き誇るお寺として仙台でも有名です。

 



6月末、紫陽花が咲く時期になると境内の小書院にてお抹茶が設けられるのです。


お抹茶(菓子つき)は400円。
中に入ると建物の裏側に通され、座敷を抜けると目の前がすぐ池の外廊下に案内される。
板の間に腰を下ろし池越しに竹林を眺めると心が落ち着きます。



抹茶の美味しさもさることながら
目の前に見える風景、気候、場所、
そして菓子…、この全てが揃ったとき本来の味以上に至福を味わえるのではと感じました。
まさにそんなひと時を過ごすことができました。

 


実は抹茶と一緒に出された菓子は白松さんの最中と熊谷屋のハッカなんです。

資福寺は古いお寺で鎌倉時代に山形の米沢(現在の高畠町)に建立され、のちに伊達家に保護されるようになりました。
その後伊達家とともに岩出山へ移り、
されらに仙台谷地小路(現在の東六番丁)へ。
そして現在の北山へと移ったのです。

資福寺は政宗が幼少の時 梵天丸と名乗っていた当時、学問を学んだ場所。
父輝宗が梵天丸の学問の師とするべく虎哉和尚(こさいおしょう)を甲斐の国(甲州)より招き入れ資福寺の住職とした。

教育係の喜多に梵天丸が「梵天丸もかくありたい」(自分も不動明王のようになりたい)というセリフは有名ですね。



ちなみに紫陽花と時期を同じくして樹齢320年の木蓮の花も咲いているんですよ。
花の大きさは大人の顔ぐらいもあります。

 


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仙台の赤線の歴史

2014/6/19

東照宮より東六番丁を南下して45号線までの途中、中ほどに比較的広い道が丁字路でつながっている。そこを左手に曲がると西友小田原店がある。
その曲がった先には他にドラッグストアや小さな飲食店や商店がいくつも立ち並びちょっとした商店街をなしている。



しかし、この周辺では細い横道ばかりで他に商店街らしきものはなく、突如として現れたように感じる。
なぜここだけ急にお店が多いのか。メインストリートの東六番丁通りにあるなら納得がいくのですが…。

さらに西友小田原店の先を曲がったところの道幅がそこだけ妙に広くなっていて、200mほど行くと突き当たり右に折れる細い道となる。
以前からこの場所が不思議でなりませんでした。
↓西友の脇の通り




調べてみると昔この辺りは実は遊郭があったということです。なんとも中心部から離れた場所になぜ?
仙台の遊郭の歴史について大まかに見ていきましょう。
宿場町として栄えた国分町に明治2年仙台城にやってきた官軍の要請で遊郭ができました。
仙台城二の丸の官軍が仙台鎮台なってからはより近くの常盤丁へと遊郭が移転した(明治11年)。この常盤丁は現在の仙台市民会館がある辺り。

しかし常盤丁の南側に隣接したところに陸軍の将校クラブである偕行社が設置されると場所柄ふさわしくないということで、明治27年に現在の小田原六丁目あたり(常盤丁)へ移されました。
この地域はもともと江戸時代から蜂屋敷と呼ばれ二代藩主忠宗公より養蜂を始めた場所だったため、その名がついたということです。養蜂場は嵐で崩壊してしまいましたが、地名のみが残りました。


近くに昔から住む方に聞いたところ、東六番丁から小田原六丁目へ入る入口に大きな門があったそうです。通称 大門(おおもん)と呼ばれ、夜定時になると門を閉じ、人の出入りをできなくするためだったそうです。常盤丁の周囲も道が細くなったり曲がりくねってたりして袋小路に近い形状でした。

大門をくぐった通りの北側に遊郭がありました。
遊郭があった地域は新たに常盤丁と呼ばれて、市民会館の辺りは元常盤丁と呼ばれるようになりました。遊郭街のメインストリートは現在の西友の先を曲がった通りで道幅が広くなっています。
↓東六番丁から小田原六丁目に入る入り口



現在は遊郭の面影はほとんど残っていません。
強いていうのなら、「コーポラスあさかや」という集合住宅が突き当たりにあるが、これはもともと「安積屋」という遊郭だった。ここら辺でも大きな建物で木造5階建だったとか。



遊郭の南西の外れには十二軒長屋(じゅうにけんながや)と呼ばれる長屋があり通称 やり手ババアの住居があった。

 

やり手ババアとは当時 客引きをする年配の女性のことをそう呼び、彼女らの仕事は建物の格子窓から手を出しての客引きでした。なぜ表に出なかったのかというと、公道での客引きは禁止されていたためで、建物を敷地から少し下げたところに建て、そのスペースに客を立たせて建物の中から交渉していたのです。


↑上の写真の千登勢屋は旅館ですが、当時の建物のつくりの名残なのか、少し建物が敷地より下がっていて格子窓もある。

また遊郭は遊ぶ建物と宿泊施設と別棟になっていました。例えば通りを挟んで別棟が宿泊施設。

遊郭には質屋もセットで存在していた。遊郭で遊ぶためのお金を作るために質屋に行ってお金を借りた。そのため質に入れたものをしまう蔵もあり、それに使われていた蔵は今でも残っている。



メインストリート突き当たり西側に神社があった。現在はないがおそらくこの辺りのあんぜんと商売繁盛を祈願したものではないか。 また男客で気に入った女性がいて連れていきたい場合はこの神社で 遊郭と縁を切る儀式を執り行ったそうです。参道には桜並木が並んでいたそうです。現在の駐車場。



また遊郭に遊びに行くことを隠語のようなものですが「草餅屋に行く」と言ったそうです。

遊郭は華やかな場所でもあり、影がある場所でもあります。
売れっ子の遊女がいる一方落ちぶれた遊女は東八番丁や塩釜へと場所を移し仕事を求めたそうです。
またいわゆるヤクザもいくつか同時に存在して 守料(もりりょう)や ショバ代をもらうことによって、
いざこざが起こらぬよう秩序を維持していたそうです。
遊郭では職業柄特別な病気にかかることも多くいわば専属の病院がありました。場所はメインストリートの突き当りにありました。



昭和33年売春防止法によって赤線が廃止され、その後はその建物を活かして旅館や下宿屋に転用され、地名も旅籠町となった。
現在西友がある場所もあけぼの荘(遊郭:五城郭)だったところです。
先に述べたコーポラスあさかもしかりです。
唯一旅籠町の名残を今も残しているのはユースホステル千登勢屋だけです。
当時は相撲の巡業や野球選手などいろいろな有名人が泊まったそうです。
今の風景からはまったく想像もつきませんね。
余談ではありますが常盤町は仙台で初めて電話ボックスが設置された場所の一つでまさもあります。それだけ人の往来が多かったことを物語っています。
また仙台市内では毎年市内中心部以外にも七夕飾りが各地で飾られますが小田原で飾られるのもそんな繁華街であった歴史があるんですね。

旅籠町の名は今も公園の名称として残っているが常盤丁の名はどこにも残っていない。


しかし電柱を見上げるとかろうじてその名が確認できるのだ。


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仙台・あおば祭り 30周年

2014/6/4

若葉のあざやかな青が目に映える、さわやかな天気となった日曜日の朝。
18日の本祭りは絶好の祭り日和となりました。

北山にある青葉神社には朝からたくさんの人が集まり、御神輿が出てくるのを待っていました。
この風景は今も昔も変わりませんね。

奥に見える鳥居は2011年の東日本大震災で倒壊してから四年目にして再建されたもので、
仙台・あおば祭に間に合うように建てられました。


地元二中の生徒達も行列に参加しています。

 


9時20分を過ぎて御神輿が出てきました。

 


稚児行列、みんな可愛いですね。



横山味噌醤油屋さんの前を通過して行きます。横山さんも参加しています。



いよいよ熊谷屋の前まで来ました。
青葉神社からまっすぐ南下して
毎年この辺でみんな一度休憩をとります。



女御輿ですね。



場所を移動して勾当台公園付近へ。
様々な山車(だし)が雀踊りとともに練り歩きます。



そしてなんといっても今年は第三十回記念で宇和島の牛鬼が特別参加しているのです。
目の前で見るそれはとても迫力のある動きでした。
二匹の牛鬼を神輿のように担ぎ、絡みがあり、そして我々のいる沿道に向けて何度も振り下ろされる長い首。
とても見ごたえがありました。


https://www.youtube.com/watch?v=i4X7gG9AS_U&feature=youtu.be
↑画像をクリックすると映像が見れます。


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平成26年度 奉納の会(瑞鳳殿)

2014/5/12

瑞鳳殿は伊達政宗公の眠る墓所です。





5月17日18日の仙台青葉まつり開催にさきがけ、瑞鳳殿で
5月9日「奉納の会」が開催されました。
地場産業発展の礎を築いた仙台藩祖 伊達政宗公の御霊にあやかり
地場産品生産者らが集い、藩祖政宗公に自社製品を奉納し
感謝とともに今後の発展を祈念するものです。

当日は青空のもと行われ39社が参加しました。
奉納は仙台伊達家第18代当主伊達泰宗氏ほか来賓の方の拝礼の後、2社ずつ順番に執り行われました。
奉納の際ご開帳された政宗公の本像を拝見すると何か身の引き締まる思いになります。

 



一通り終えたところで雨がポツポツと降ってきました。
早々に記念写真をとり一切を終了することができました。


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