仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

カテゴリ:歴史

朝日神社の杉が倒れたのはいつ?

2012/5/11

上杉通(愛宕上杉通)という通りが仙台にあります。 他に中杉通、二本杉通、杉山通という名の通りが近くにある。 いずれも杉という文字が入っているが、これは現在の台原で伊達藩四代藩主綱村の時代に杉を栽培していて当時杉山台と呼ばれそこへ向かう道を杉山通と呼んだことによります。 上杉通はきちんとした言い方をすれば上杉山通で城に近いほうだから上、次に中(杉山通)、杉山通となったそうです。                       ↑ そして二本杉通も杉山台方面へ向かう道なのですがその名前の由来は他の三つとは違うみたいです。 そもそも二本杉通は花京院あたりから盲学校のあたりまでの道を指すのですが、 盲学校のところにある朝日神社の境内にある二本の大きな杉(翁杉・姥杉)にその名は由来するそうです。  応和3年(963)此地に勧請。文治5年(1189)8月源頼朝奥州征伐の折,藤原泰衡が中山物見ケ岡(小田原台原丘陵)に退き防塁の陣を張り,頼朝の軍勢は二本杉の処に進みこの神祠に詣でた。その時,あたかも朝日が昇ってくるのを見たので朝日明神の名を残したと云われる。当社は守子の社(もりこのやしろ)と称され,朝日神子が農村の子等を集めて読書手習を教えた処で又幼児の守護神として百日咳を癒す霊験ありと信ぜられ守子の社の名が伝えられた。朝日神子(巫女)は寛文年間(1661~73)当社に仕えた傍ら付近の田野を開墾水利を推考して桜田川と梅田川を開き耕作に便を与えた。これ朝日神子が神のお告げによったもので農民をよく指導した其の功を賞し村民挙げて崇敬した。後に伊達氏命じて一祠を建立して神に祭った。神木二本の杉は古来翁杉姥杉と呼ばれ(樹齢約600年)ていたが翁杉の方が樹勢弱まり昭和9年(1934)3月21日の大暴風雨の際,中途から吹折られた。現在の二本杉は樹齢から見て其頃植継がれたものと思われる。二本杉通りの町名もこの老杉故に称された。(縁起案内掲示) 案内板には上記のように書いてはあるが見ると確かに杉は一本途中から折れている。 しかしながら昭和9年に折れたにしては周囲の柵の衝撃を受けた跡が新しいような気がしてならない。 柵の材質自体もここ10~20年くらいのものに感じます、いくら調べてもこれ以上の情報は見つからないのでどなたか(特に近所の方)知りませんでしょうか? ↑左側の木は杉ではありません、草むらに隠れてわかりませんがその隣に3m位の高さで折れた杉がありました。 ↑わりと新しいアルミの柵ですよね。 ↑倒れ、折れた杉。

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仙台郵便局創設之地の石碑

2012/5/9

北法人会青年部会の役員会が新仙台ビルであったので出席してきました。 そこまでは徒歩で行くと国分町をまっすぐ行くのですが、 この日は普段まったく気付くことのなかった石碑がふと目に入ってきたのです。 なんだろうこんなところに石碑が… よく見てみると 「仙台郵便局創設之地」と書いてありましたので、 早速ネットで調べたら、(厳密にいうと)実は仙台郵便局の創設の地はこの場所じゃなかったらしい。 →詳しくはこちらなるほどね カレーうどん屋さんの前です。

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「仙台藩の御家騒動 寛文事件を追いかけろ!」

2012/4/30

先日の土曜日、4月28日に仙台市博物館にて しろ・まち講座 「仙台藩の御家騒動―「伊達の黒箱」を紐解く」 というものをやっていたので拝聴してきました。 いわゆる伊達家の御家騒動について以前調べてみたのですが、なんか複雑でいまいち理解できませんでしたが、やはり耳で話を聞くのが一番! 13:30からの講演でしたが13時頃に博物館についたら駐車場がほとんど満車でした、 おそらく天気もいいし周辺の桜もきれいなので皆停めているのだろうと思いながらも、なんとか空きスペースを見つけ駐車することが出来ました。 館内に入ると、会場は一階受付向かいにある小さいながらも3~400人は収容できそうなホールで、なんとすでにほぼ満席状態でした。(駐車場が満車なのも納得) 幸いにも前から4列目のD-8(真中はD-10)の席に座ることができました。(ほぼ前列正面) 写真のように早くからほぼ満席で別の会議室も使用したそうです。 見た感じ私よりずっと年配の方がほとんどでしたがその関心の高さには正直びっくりしました。 講師の博物館学芸員、坂田 美咲さんのお話はお若いのにとてもわかりやすく説明してくださりとてもよく理解できました。 伊達家の御家騒動については後日もう一度復習をしてから簡単に当ブログで説明をしたいと思います。 講演後は同館の企画展の「仙台藩の御家騒動 寛文事件を追いかけろ!」の展示を見て回ったのですが、あまりにじっくりと見過ぎて時間が無くなり結局途中で博物館が閉館になってしまいました。(涙) しかしながらまだ6月10日までやっているので必ずもう一度行くつもりです。 博物館の情報資料センターではいろいろと(図書館までとは行きませんが)郷土史関連のものがいろいろ見れてとても勉強になります。 係りの人に見たい資料を尋ねるととても親切に探してくれました。 博物館なんて正直小学校以来きたことなかったし、あまり興味もなかった。 でも今回久しぶりに来館しとても面白いところだというのを思い知らされました。 毎月通ってもいいぐらいの勢いです(笑)←本当に! 今回なぜ伊達家の御家騒動に興味をもったかというと自分の子供が通っている保育園の隣にある荘厳寺の門、通称逆さ門の由来がそこから来ていたからです。 みなさんも是非、仙台市博物館へ足を運んで郷土について興味を持っていただけたら私もうれしいなと思います。 仙台城三の丸跡にある仙台市博物館

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えっ、勾当台から東二番町へ続く道路って昔は…

2012/4/23

熊谷屋のパンフレットを新しく作るのに当然お店の地図も入れておきたい。 デザイナーさんから 「地図を描いてみたんですけどここの通り名はなんて表記しましょうか?」 と尋ねられました。 その通りは地下鉄北四番丁がある通りで南北に走っている道路のことです。 そこの交差点は私が幼いころから味の素の(ビルがある)ところとか、 地下鉄が出来てからは地下鉄の北四番丁駅のところとか言って道の説明をしていました。 その交差点の東西に走っているのは国道48号線(途中折れますが…後記述)。 さて南北の道路は?といいますと、 普段あまり意識してませんでしたが、 (県道)仙台泉線とか勾当台通とか東二番丁通などと言っていました。 実はあそこら辺は道路の名称が複雑で昔はつなげて旧国道4号線だったのですが 北四番丁駅を境に北は県道仙台泉線、 南は駅西から折れた国道48号線が勾当台公園前まで、そして東二番丁通へとつながる。 その折れた国道48号線部分は勾当台通の愛称で呼ばれるとのことで、 よって東二番丁通は勾当台公園より南側を言う。 ウィキペディア「勾当台通」参照 へぇ~意外と複雑なんだね~、長年住んでいながらよくわかっていなかったりして…(^^ゞ ここまででもおもしろいんですけど、ウィキペディア「勾当台通」を見ててびっくりしたこと、 現在では仙台市役所あたりから普通にまっすぐに仙台商工会議所方面へと道路はスムーズに流れていますが、昔は定禅寺通りとの交差点のところがクランク状態だったという事実。 wikiによりますと、仙台市地下鉄南北線の新設に合わせ、1986年に勾当台公園を貫く経路に付け替えが行われ、東二番丁通りと直線的に繋がったと。 しっかり自分は生まれてるではないですかっ、しかも当時高校一年生!なぜに記憶に無い?? みなさんは覚えていますか? 言われてみれば市役所前あたりから道路が斜めに折れている、 おそらく(記憶に無いので)勾当台公園は少し削られ、現在の市民広場あたりのスペースが出現したのでしょう。 市民広場ができたころはそこだけなんとなく覚えている。 そんな衝撃をおぼえました(恥)

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「天文四伝書」を書いた戸板保佑はご近所さん (渾天儀)

2012/4/21

昨日のニュースで仙台天文台にある江戸時代の器機が、「仙台藩天文学器機」として重要文化財の指定を受けたというのを見ました。 いくつかの器機が「仙台藩天文学器機」として指定を受けたのですが、その中の一つ渾天儀というものが現存する最古のものだそうです。 夕方のNHKのニュースでたまたまテレビをつけたらやっていたので流して見て、 へぇ~と思っていたら、見慣れた風景が出てました! 流して見ていたのであまり詳しくは覚えていませんが、 その渾天儀を使って観測していた戸板保佑という人物の子孫がインタビューを受けていて 「ここらへんに(渾天儀を)置いて観測をしていたそうです…」とおっしゃっていました。 そこはなんとすぐ近所でした! あまり天文には詳しくないですが、なんかグッと親近感を覚えました。 仙台北五番丁鍛冶町西裏南側 多分二番目の電柱の先の水道あたりに置いていた?

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