伊達安芸という人物は伊達騒動(寛文事件)の中心的人物で、伊達兵部宗勝と争い最終的に兵部派の原田甲斐の乱心により殺害された。
今回、涌谷町立史料館にて伊達安芸ゆかりの品を5月末まで特別展示しているというので行ってみました。
まずは伊達宗重公祀り神号を赤心猛雄命と称する涌谷神社を拝観。
伊達安芸宗重公胸像
一応、涌谷町立史料館と読みます…
涌谷町立史料館は涌谷伊達家の城跡にある天守閣を模した建物で…
隣には仙台藩に残る貴重な天保4年(1833)建立の鼓楼建築の櫓があります。
あとから知ったのですが、涌谷町立史料館は震災で旧館していて今年4月15日に再開館したばかりだったそうです。
史料館に入り目当てのものは2階にありました。
それは「盡忠」の掛軸と銘舎利容器。
「盡忠」の掛軸は伊達安芸の死後、伊達家四代目綱村が宗重公の忠勤を讃え自らの筆で書いたもの。
写真では見たことありましたが本物を目の前にして何とも言えぬ感動です。
寛文事件の集約がこの二文字に表れているようにすら感じました。
そしてさらにもう一つ、
宗重の分骨した遺灰を収めたとされる香炉および曲げ物の容器。
これは震災の影響で見龍院にある涌谷伊達家墓所の門脇に立つ石造五重塔がずれたため平成24年7月に修復するのに解体したところ内部から偶然発見されたものだそうです。
とても綺麗な状態で保存されています。
その他にも史料館には畳4〜5畳くらいはある当時の領地を記した地図があり、とても見応えのあるもので、現在の仙台市内の地名も当時は村であったことが伺えます。
この地図は仙台藩全領土が描かれており北は岩手県水沢辺りまで載っていました。
そして寛文事件の発端のひとつとなった桃生郡(登米)の伊達式部と遠田郡(涌谷)の伊達安芸が新田開発の際に領地境を争った名鰭(なびれ)沼がその地図で確認できたのが嬉しかった。
ちなみに3階は展望室になっていて見晴らしが良かったですよ。
感動覚めやらぬまま、次はいよいよ伊達安芸の菩提寺である見龍寺へと向かかいました。
こちらが見龍廟の門です。
そして脇にあるこの五重塔の中から遺灰が見つかったのです。
この塔は伊達安芸宗重の三回忌に建立されたそうですが、本塔は両墓制における参り墓のような役割を担ったものらしいです。三回忌に…、ということはそれまで遺灰をそのために取っておいたのかそれとも建立時に霊屋から取り出したものなのか、どっちだったのだろう。
中も是非見たいなぁと思ったのですがあいにく門は閉まっていました。そして住職さんも留守のよう…。
たまたまお墓参り来ていた方に話を伺うと普段は開けていないが住職さんがいれば開けてくれるとのこと。
遥々来たのに見れなくて残念です。
仕方がないので塀の上から写真だけ撮りました。
どれがどれだかはわかりません…。
今度、また見龍寺に来よう。そして次回こそは見れますように!
涌谷はとてもいい町でした、自然もいいし、町もレトロな感じで良さそうなお店がたくさんありました。
今度、ゆっくり見て回りたいですね。
登米も行きたい、原田甲斐のお墓があるので。
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