仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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租税教室指導者研修会

2012/10/19

法人会で、租税教室指導者研修会のオブザーブに参加してきました。 小学校の児童や中学校の生徒に向けて租税教室をする時の指導者研修です。 話し方、話す内容、興味をもたせるための工夫などいくつかポイントを教わりました。 その中の教材のDVDで「マリンとヤマト 不思議な日曜日」というアニメを見せるのですが、 なるほど、「もし税金がなくなったらどうなるのか…」 かなり極端な話ですがいろいろと不便なことが起こるということが理解できます。 税金がなかったら小学校の月謝はいくらでしょう? ①3万円 ②5万円 ③7万円 正解は! ③7万円 いつか、市内の小学校に行くかもよ! ←ポチッと押してください!
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ねんりんピック

2012/10/13

10月13日(土)
宮城野原にある陸上競技場にてねんりんピックの開会式が開催されました。
隣接するふれあい広場にて熊谷屋も出店しました。
考えてみると七夕以外で初めての野外催事なのかも。
8時より始まり、続々と各県の選手の方が集まってきて、お店の方にもお土産を探しに見にきてくださいました。
さすが参加するだけあってみなさんお元気!
各県のユニホームというかジャージもそれぞれかっこよく、そのせいかみなさんお若く見える~(^O^)

ねんりんピックの種目には変わったものもあって、スポーツの他に文化交流大会と称し
囲碁や健康マージャン、将棋、俳句もあるんですね。
手の運動と言えばスポーツとも言えなくはないか。いやいや言えないって(笑)

我々のテントは工芸と一緒で実演や展示されてる工芸品を鑑賞したり購入できる場となってました。
仙台箪笥の金表具を打っているところ

近くに巨大流しそうめん機みたいな足湯がありました(笑)

この日はとても天気がよくまさに開会式日和でしたが時折吹く突風に度々悩まされましたね。T^T
とにかく選手のみなさん楽しんで頑張ってください!

 


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広島そごう他、催事のお知らせ

2012/10/2

明日10月3日より、広島そごうにて第16回宮城県の物産と観光展が行われ、熊谷屋も出店いたします。 デジタル広告はこちら→http://e-catalog.sogo-gogo.com/514/20121002/001/index.html 期間は10月3日(水)から10月9日(火) 広島地区の皆様のお越しをお待ちしています! つづきまして 10月10日(水)から10月18日(木)10月20日(土)まで仙台駅ステンドグラス前にて「旨い物 MIYAGIフェア」が行われ、出店いたします。 営業時間は(木~土)10:00~21:00(日~水)10:00~20:00(最終日19:00まで) となります。 JRで仙台駅に来た際はお立ち寄りください~ 最期に今年は10月13日より宮城県で初めてねんりんピックが開催されます。 ねんりんピックとは? 10月13日~10月16日に開催される第25回ねんりんピック、 開会式のある10月13日のみですが仙台市陸上競技場脇のふれあい広場にて屋台が並ぶ中、宮城の物産を販売するブースにて熊谷屋も出店いたします。 ←ポチッと押してください!


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連続真夏日18日新記録

2012/9/7

8月の19日から続いた連続真夏日の記録、 9月5日に新記録を更新して、翌6日のお昼に降った土砂降りで更新がストップしてしまいました。 …しまいました、というか、これがよい記録なのか悪い記録なのか判断に困りますが、 やっぱり夏は夏らしく暑くないとダメだよね、 でも暑すぎても体力が消耗したり、水不足になったり、電力の消費量が高くなったり…、 でも記録更新はスゲーっと思ってしまう(笑) まぁ、でもよく考えてみると19日連続?たったそれだけ? もっと長かったでしょうよ!という印象が強い。 仮に途切れていたとしても一日二日くらいだろう。 でも実際確認してみると意外なことに… 【画面を大きくする】 七夕以降少し暑さがやわらいだなという記憶はあるが、お盆あたりからまた暑くなったという印象。 だけど意外と27℃の日もあったんですね。 いずれにせよ体感気温は常に真夏日(笑) ちなみに私の記憶だと2007年08月16日に仙台観測史上最高の37.2度を記録したとか… ←ポチッと押してください!
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太白飴の老舗 兵藤飴本舗が閉店

2012/8/21

広瀬町にある兵藤飴本舗 ここは太白飴の老舗で残念ながら長い歴史に幕を閉じることとなった。 兵藤さんには菓子組合でも大変お世話になっている方なので残念な限りです。 後継ぎがおらず自分も歳を取ってなかなか体がいうことが効かなくなってきたということでいずれは閉めるだろうとおっしゃっていた、今回の震災と奥さんの体調不良のため閉店が早まっただけだという。 建物も100年以上経っているもので大変興味深い。 現在は中の床も古くなってギシギシいうようになったとか。 話を聞くとこの建物は現在の御主人のおやじさんが建てたもので面白いのが屋根の北北東の部分、ちょうど交差点に面している屋根の角のに鬼のような形相をした閻魔様??のような焼物の人形がありますが、これは鬼門に向けられてつけたそうです。 わかりづらいのでアップ 横から見たところ その反対側の南側には鳩が2羽。 今まで使っていた道具で使用できるものは同業者に譲ってやったそうです。 一部は榴ヶ岡の民族歴史資料館で引き取ったそうですのでそのうち展示されるかもですね。
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仙台七夕って旧暦の日程だと思ってたけど違っていたの!?

2012/8/7

七夕の起こりは古くは中国から伝わったといいますが、 最初は棚状に飾り「棚機」などと表記さてたようで、しだいに七日の夕方に行うことから「七夕」となったそうです。 また現在短冊に願い事を書くのが一般的ですが、昔は梶の葉に里芋の葉の露ですった墨で和歌を書いていたそうです。 江戸時代、この風習が五節句の一つとして定めらるようになり民衆にも広まるようになりました。 当時七夕というものは旧暦の7月7日の夕方に七夕飾りを飾り、8日の朝に川に流すというものでした。 ちなみに仙台では広瀬川に流したという文献があるそうです。 明治に入り新暦に変わったことで全国的に七夕が衰退していき、仙台では縮小されながらも存続してきました。 現在の日程の8月の6~8日は新暦と旧暦の間の中歴(新暦の月遅れ)ということでこの期間に仙台では七夕祭りが行なわれるようになりました。  お盆についても同じく中歴ということです。 また七夕の七にちなんで七つの飾り飾られるようになりました。 七つの飾りの意味 紙衣 裁縫の上達や子供の健康祈願 吹き流し  五色の願いの糸が変化 裁縫の上達 巾着  お金に不自由しないように 投網  豊漁 感謝 折鶴  家内安全 延命長寿 短冊  梶の葉に和歌や願い事を各習俗より変化した 屑籠  飾りのくずを入れ、倹約や物を粗末にしないよう戒める


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平成24年仙台七夕祭

2012/8/6

いよいよ本日8月6日から始まりました仙台七夕祭。 今年もおおまちアーケード大内屋前でお店を出してます! 朝、お店の設営後歩いて七夕を見てきました。 今年はなんだか色とりどりで明るくて楽しくなるような七夕飾りが多かったです。 七夕名物の人形劇 全国各地から寄せられた短冊 鉢植えになった竹に七夕の飾りつけをしたもの。かわいいですね! なにやら涼しげなものを見つけました!
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政宗歴史塾

2012/8/4

8月3日 瑞鳳殿にて政宗歴史塾なるものが開催されました。 こういった会はたしか3~4回目で一般者を対象にしたのは今回が初めてだとか。 (これまでは子供たちを対象に歴史に親しんでほしいという趣旨だったようだ) そして今回は定員30名で抽選の結果ラッキーなことに選考され参加してきました。 10:00から始まり最初の一時間は瑞鳳殿に併設されている旅館 天龍閣で講義を聴き、 残りの一時間は涅槃門から瑞鳳殿まで移動しながらいろいろと説明を聴きました。 講義の題名は 「伊達政宗 最期の日々を追う」と題し、亡くなるまでの約5ヶ月間(寛永13年1月~5月)の行動や言動について紹介しそこから政宗はどんな人物だったのかというのを知りました。 自己の健康管理には人一倍気を遣っていた政宗だったがいよいよもって己の死期が近づいたことを悟ると周囲の家臣をいたわりながらも息子忠宗の代になっても引き続き盛り立ててほしいと頼んでいた。 また徳川家に忠誠をたてる政宗は参勤交代の時期が近付いているが自分の体力が持つうちにと時期を早めて仙台を出発し、死ぬ前に徳川将軍(家光)に別れの挨拶をしたいと望んだ。 参勤交代出発の前にホトトギスの鳴き声を聴こうと経ヶ峯へ来た時に 「自分が亡くなった後はこのあたりにいるのがふさわしい場所である」 と自ら墓所とすべき場所を杖でさした、この場所が今の瑞鳳殿の場所である。 江戸に着き家光に挨拶した後、屋敷で療養していた。 家光が医師を政宗のところに遣わせたり、手厚い対処をしていることもあり多くの諸大名たちが屋敷に見舞いに来た。 病床に伏していた政宗は見舞いに来た客人に対しいちいち着物に着替え身だしなみもきちんとして出迎えた。心配した家光にも無理をするなと言われたが政宗は 「仙台藩主として身分をきちんとまっとうして身分がきちんと続くようにと思っています。将軍様をないがしろにするわけにはいきません。…」と答え、 自分が死んでも仙台藩の地位が変わらないようにと政宗の心遣いが感じられる。 江戸にいる妻の愛姫にも会おうとしなかった。愛姫は弱った政宗のそばにいたいと願ったが政宗は「あなたは仙台藩の主君の母君だから、軽々しくふるまうのは品格がある程度の人までだ。」と武士としての品格と次の藩主を見据えた考えを示してる。 政宗の最後 5月24日 根っからの戦国武将だった政宗は戦で死ぬのが本望、このように床で死ぬのは無念と悔やんでいた。 未明に目をさまし、いよいよ死を悟った政宗は体を起こしてもらい髪を整えてもらい、安座して西の方角に合掌しながら死を待ち、そのまま一時気を失い、そしてハッと目を見開いてそのまま息を引き取ったという。 最期まで武将らしい死に方をした政宗だった。 よく伊達政宗は派手好きだったといいますが、政宗は武士の格式を重んじ徳川家に忠誠を示すことで仙台藩の安泰を願い、家臣たちのこと思うとても優しい方だったとうかがえます。 どうして戦に派手な衣装を着たかということに関してはあとで調べたいと思います。 講義の後は外へ出て瑞鳳殿内をあるきながら説明を聴きました。 もともとここは根岸村といい政宗の死後瑞鳳殿を建ててから城下に入ったそうです。 ここ経ヶ峰は名前より僧が修行する聖なる山だった。 ここの階段は伊達六二万石になぞらえて62段あるそうです。 涅槃門は黒漆が塗ってありには菊の紋章が施されているがこれは天皇の菊の御紋とは違う、 秀吉より拝領したものだという。 他にも伊達家の家紋はおなじみの竹に雀、三引両、九曜紋などいくつもある。 そして門の上には伝説の生き物、麒麟が彫刻されている。これは仙台藩の安泰を祈願したもの。 (ブレてしまいましたが) ところでいつもこの門は閉じられ、入り口は脇から入るのがなんでか不思議でしたが、 涅槃門をくぐるということは「 煩悩を去って悟りの境界へ入る」という意味なのでわれわれはわきの入り口をくぐって入るのが正しいということである。 そして門をくぐると急な階段がありその両脇には石灯篭がいくつかある。 この石灯篭はのちに家臣より献上されたものであるがその中には片倉小十郎や茂庭周防、奥山大学などがいた。 瑞鳳殿に施されている動物の彫刻などはすべて阿吽の対になっている。 例えば… 龍 獅子 鳳凰 そして有名な竹に雀も実は(逆)阿吽である。 そして瑞鳳殿の両脇には塔がいくつか建っています。 当時の風習として主が無くなると側近の家臣があの世までお仕えしたいと殉死することがありました。 これは宝篋印塔(ほうきょういんとう)と言って、ここには大きいものが15、小さいものが5ありその人たちを奉ったもので小さいものは家臣のさらに家臣、つまりそのものも自分の主とともに殉死したということ。 これは2代目藩主忠宗の時は16名で、綱宗の時には武家諸法度で殉死禁止令が出ていたのでありませんが、断髪でこれに代わる行為としたようです。 一折説明を聴き終え、最後に伊達18代目の泰宗氏よりお話を聞くことができました。 こんな間近で見れるなんてうれしい! 今回初めて参加しましたがとても勉強になり、また興味が湧いてきました。 とても面白かったです。機会があればまた参加したい。
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土井晩翠の「土井」って「どい」じゃない?!

2012/7/27

青葉通りに面したところに「晩翠草堂」という建物がある。 ここは土井晩翠が晩年暮らした家で、現在は無料で中を見学することができる。 今まで入ったことはなかったが近くで用があったのと気になっていたのとで足を運んでみた。 屋敷内はさほど広くない、しかし展示してある模型を見ると裏にも建物があるらしく公開してるスペースが手前だけなようだ。

庭はある程度の広さがあり外には出られないもののゆったりとした眺めが楽しめる。 見学できる屋敷内スペースには晩翠が亡くなった当時のベッドと布団がそのまま奥の部屋に置いてあり、 その他は正直これといって展示物はあまりない。

しかし仙台の誇る偉人、もちろん会ったことはないがここに暮らしていたんだぁと思うと感慨深い。
ところで案内してくれたのは60~70代の男性の方でしたが、最初にある程度の説明をしてくれてあとはCDを流して録音の説明(2分ほど)に切り替わり、そのあとは自分でいろいろ展示物を眺めるといった感じでした。 さっと見て帰ろうとしましたが、展示してあった年表に北鍛冶町(現木町通二丁目)の質屋に生まれるとあるのをみつけました。

うちのお店(熊谷屋)は生家の真向いにあり当然、土井晩翠が生まれたところであるということは知っていました。(昔は晩翠荘という古いアパートがあったんですよ) しかしそこがもともと質屋だったとは初めて知りました。
そこで先ほどの案内してくれた方にお話を聞くといろいろな話をしてくれました。
…あそこは北鍛冶町でもともとは鍛冶屋だったのではないか、当時の屋号が鎚屋(つちや)といい、 そのうち苗字になり鎚が土に代わり土屋となり、そして土井と変わっていった。
そもそもいまでこそ「どい晩翠」と言っているが本名は「つちい」読むのだと。 ところが東北弁で訛って「つつい(筒井)さん」と聞こえたり、そのまま字面から「どい」と読まれることが多かったのである時を機に「どい」と読ませるようにしたとか。 しかも名前を変えたのは昭和9年(違う説もあるがあえて)からで生涯のほとんど終わりの方だけだったのです。

現在の晩翠草堂は見たままの広さですが、もともとはとても大きな敷地だったそうです。 隣接するビルはもとより奥州街道を超えてまでも土地はあったそうです。

北鍛冶町で質屋をしていて、ちょうど侍がお金を工面するのに刀や着物を質に入れ無ければならないという時代背景もあり質屋は古物商で潤い、事業を拡大するために大町の辺りに引っ越したそうです。 その際晩翠は現木町通小学校から立町小学校へと3年生の時に転校しました。 その後今の晩翠草堂にあった3階建の旅館を買い取りそこを住居としたそうです。
とても大きな旅館だったらしいですね、 しかしながら戦争で焼けてしまい、その際書物も全部焼けて、何も無くなり晩翠は失意のどん底にいました。 その晩翠を慰めようと、教え子や市民が有志で昭和24年に建てた家が、この「晩翠草堂」。
しかしながら戦後の区画整備でかなりの土地を削られ現在の大きさとなった。 その好意もむなしく前年の昭和23年に妻に先立たれ、亡くなるまでのたった3年間だけほぼ一人で住みそのままここで息を引き取ったという。


今まで他の人より身近に感じながらも土井晩翠=「荒城の月」、木町通小学校の校歌、それと生家が目の前ぐらいしか知りませんでした。 生家がうちの前にあったなんてどのくらいの人が知っているだろう?多分ほとんどが知らないと思う。 あそこに仙台市で碑を建てるべきですよね!と説明してくれた案内の方と同意見!! いろいろお話を聞いてへぇ~と驚くことがたくさんでした。
みなさんもお寄りの際はただ見るだけでなくお話を聞くことをおすすめします! 土井晩翠の生家のあった場所 (薬屋さんから駐車場を挟んで隣の商店までとその奥)  


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  1. 晩翠ファン より:

    兵庫県在住の、城下町などの歴史・地理が好きな還暦男です。
    晩翠草堂や立町小学校の晩翠資料室等で尋ねても、晩翠の生家の正確な場所が分からず、
    別件もあり、今日、市役所の観光課へ出向くと、このブログのコピーをいただき、午後に現地と熊谷屋さんへとたどり着きました。
    (御餅とお菓子、美味しかったです(^○^))
    観光課には、ここに碑を建てるべきと言っておきました(^_^;)。
    晩翠が、小学3年生でなぜ転校するのかも、疑問でしたが、貴殿のブログを拝読し納得できました。
    ありがとうございます。

    1. admin より:

      晩翠ファンさん コメントありがとうございます。観光課の方と同意見で晩翠の生家に碑を建てるべきだと思います。
      現在この辺の地域のまちづくり協議会がまさに始まろうとしておりますので、そこで提言していきたいと考えています。
      今後ともよろしくお願いいたします。

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遠見塚古墳

2012/6/19

古墳といえば「仁徳陵古墳」などが有名ですが、仙台にも立派な前方後円墳があるんです。 それが若林区にある「遠見塚古墳」です。 国指定史跡 遠見塚古墳 仙台平野の真ん中、南小泉遺跡(弥生・古墳時代の集落跡)の中に造られた全長110mの前方後円墳で、東北地方では第3位の規模をもっている。  古墳の形式、構造、出土遺物から見て、4世紀末~5世紀初めごろの墳墓と考えられ、東北では2番目に古いものである。被葬者は当時、すでに強力な政治、経済力を持ち、畿内との関係を保ちながら、広く仙台平野の王として君臨していたことを示す遺跡である。(史跡説明板より) 石碑の向こうに見える地表のふくらみが古墳で左奥が円形部分で、右手前が方形部分です。 さらに円形部分に上るには階段がありますが、これは当然後から設置したものでしょう。 上から下方を見下ろした写真です。 上空から見るとしっかり鍵穴の形をしてますね。 ここは古墳がど~んとあるだけで他に何があるわけではありませんが、 こうして古墳の土に手を当ててみると4世紀からの壮大な歴史が感じ取られるような気がしてとてもわくわくするのは私だけでしょうか? 実はここに古墳があることは以前から知ってはいましたが、なかなか見に来ることが出来ませんでした、 またみなさんも同じように知ってはいたものの見たことないという方は多いと思います。 でも一度でいいですから、来てみてください、なんか現代の世の中でせわしなくしている自分がとてもちっぽけに思えて、そして約16世紀もの間ここにこの古墳が存在していたことを感じとれるでしょう。 すぐとなりにある遠見塚小学校に続く桜並木もその季節になると綺麗なのでしょうね。 ここの児童がうらましい。(4月初めに撮影)
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