仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

土井晩翠の「土井」って「どい」じゃない?!

2012/7/27

青葉通りに面したところに「晩翠草堂」という建物がある。 ここは土井晩翠が晩年暮らした家で、現在は無料で中を見学することができる。 今まで入ったことはなかったが近くで用があったのと気になっていたのとで足を運んでみた。 屋敷内はさほど広くない、しかし展示してある模型を見ると裏にも建物があるらしく公開してるスペースが手前だけなようだ。

庭はある程度の広さがあり外には出られないもののゆったりとした眺めが楽しめる。 見学できる屋敷内スペースには晩翠が亡くなった当時のベッドと布団がそのまま奥の部屋に置いてあり、 その他は正直これといって展示物はあまりない。

しかし仙台の誇る偉人、もちろん会ったことはないがここに暮らしていたんだぁと思うと感慨深い。
ところで案内してくれたのは60~70代の男性の方でしたが、最初にある程度の説明をしてくれてあとはCDを流して録音の説明(2分ほど)に切り替わり、そのあとは自分でいろいろ展示物を眺めるといった感じでした。 さっと見て帰ろうとしましたが、展示してあった年表に北鍛冶町(現木町通二丁目)の質屋に生まれるとあるのをみつけました。

うちのお店(熊谷屋)は生家の真向いにあり当然、土井晩翠が生まれたところであるということは知っていました。(昔は晩翠荘という古いアパートがあったんですよ) しかしそこがもともと質屋だったとは初めて知りました。
そこで先ほどの案内してくれた方にお話を聞くといろいろな話をしてくれました。
…あそこは北鍛冶町でもともとは鍛冶屋だったのではないか、当時の屋号が鎚屋(つちや)といい、 そのうち苗字になり鎚が土に代わり土屋となり、そして土井と変わっていった。
そもそもいまでこそ「どい晩翠」と言っているが本名は「つちい」読むのだと。 ところが東北弁で訛って「つつい(筒井)さん」と聞こえたり、そのまま字面から「どい」と読まれることが多かったのである時を機に「どい」と読ませるようにしたとか。 しかも名前を変えたのは昭和9年(違う説もあるがあえて)からで生涯のほとんど終わりの方だけだったのです。

現在の晩翠草堂は見たままの広さですが、もともとはとても大きな敷地だったそうです。 隣接するビルはもとより奥州街道を超えてまでも土地はあったそうです。

北鍛冶町で質屋をしていて、ちょうど侍がお金を工面するのに刀や着物を質に入れ無ければならないという時代背景もあり質屋は古物商で潤い、事業を拡大するために大町の辺りに引っ越したそうです。 その際晩翠は現木町通小学校から立町小学校へと3年生の時に転校しました。 その後今の晩翠草堂にあった3階建の旅館を買い取りそこを住居としたそうです。
とても大きな旅館だったらしいですね、 しかしながら戦争で焼けてしまい、その際書物も全部焼けて、何も無くなり晩翠は失意のどん底にいました。 その晩翠を慰めようと、教え子や市民が有志で昭和24年に建てた家が、この「晩翠草堂」。
しかしながら戦後の区画整備でかなりの土地を削られ現在の大きさとなった。 その好意もむなしく前年の昭和23年に妻に先立たれ、亡くなるまでのたった3年間だけほぼ一人で住みそのままここで息を引き取ったという。


今まで他の人より身近に感じながらも土井晩翠=「荒城の月」、木町通小学校の校歌、それと生家が目の前ぐらいしか知りませんでした。 生家がうちの前にあったなんてどのくらいの人が知っているだろう?多分ほとんどが知らないと思う。 あそこに仙台市で碑を建てるべきですよね!と説明してくれた案内の方と同意見!! いろいろお話を聞いてへぇ~と驚くことがたくさんでした。
みなさんもお寄りの際はただ見るだけでなくお話を聞くことをおすすめします! 土井晩翠の生家のあった場所 (薬屋さんから駐車場を挟んで隣の商店までとその奥)  


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コメント (2件)

  1. 晩翠ファン より:

    兵庫県在住の、城下町などの歴史・地理が好きな還暦男です。
    晩翠草堂や立町小学校の晩翠資料室等で尋ねても、晩翠の生家の正確な場所が分からず、
    別件もあり、今日、市役所の観光課へ出向くと、このブログのコピーをいただき、午後に現地と熊谷屋さんへとたどり着きました。
    (御餅とお菓子、美味しかったです(^○^))
    観光課には、ここに碑を建てるべきと言っておきました(^_^;)。
    晩翠が、小学3年生でなぜ転校するのかも、疑問でしたが、貴殿のブログを拝読し納得できました。
    ありがとうございます。

    1. admin より:

      晩翠ファンさん コメントありがとうございます。観光課の方と同意見で晩翠の生家に碑を建てるべきだと思います。
      現在この辺の地域のまちづくり協議会がまさに始まろうとしておりますので、そこで提言していきたいと考えています。
      今後ともよろしくお願いいたします。

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林子平

2012/7/20

7月19日 子平町の龍雲院で林子平の誕生祭がやっていたので覗いてきました。 参道には屋台がならび境内には演芸のための櫓が組まれていました。 でも今回の目的は林子平の御堂の御開帳でした。 普段は扉がしまっていて中側は見れず、年に一度この時だけ見ることができます。 ちなみに前日にたまたま柳町にある大日如来のお祭を見てきましたが人も屋台もすご過ぎて境内まで行けませんでした(笑)↓

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資福寺のあじさいが見頃です

2012/7/12

先日6月30日に資福寺に行ってまだ満開ではなかったので、 もう一度行ってきました。 空は曇りで夕方の写真です。なかなか三脚や一脚無しに撮るのは至難の業でシャッターを押す瞬間手がプルプルなりそうでした(笑)。 つたない写真ですがご覧ください。 たまたま露出が暗くなってしまったが悪くないので載せました。

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和菓子講習会

2012/7/9

昨日、岩手県は一関の蔵ホテルにて和菓子講習会があり参加してきました。 これは主催が岩手県和菓子協会だったのですが、 なぜ岩手県の講習会に行ったかといいますと、 岩手県和菓子協会の現会長が一関の松栄堂の社長で 松栄堂は私が若いころお世話になっていたところでありました、 そこで社長のお声掛けで講話を聴くとともに今回の講師である鎌田先生のお手伝いをさせていただいたのです。 その際先生に直接質問などできてとても有意義な時間を過ごすことができました。 また松栄堂の工場内で講習前日に準備を行なったので昔の同僚とも一緒に作業ができ昔に戻ったような感じも覚え懐かしく楽しく過ごすことができました。 鎌田先生の実演の様子 お話の内容は、小豆の話、焼き菓子などいくつかの和菓子の作り方と紹介、 そして練りきりの実演。 茶会を意識した季節の練り切り菓子、表現の仕方、色の使い方、作業性、材料について、道具について…いろいろと学ぶことが多かったです。 このような講習会はなかなかないのでとてもためになりました。またこのような機会があれば是非参加したいですね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 講師プロフィール:鎌田克幸 北海道出身 現67歳 昭和43年 日本菓子専門学校卒業 神田 ささま、広島 虎屋勤務 昭和50年 日本菓子専門学校教師 35年勤務 平成22年 日本菓子専門学校講師就任 日本菓子協会東和会運営本部長・編集部長 全国菓子研究団体連合会事業部長(技術コンテスト担当) 選・和菓子職審査員。荒井賞選考委員。 講習 フランス、ドイツ、スイス、イタリア、アメリカ、韓国、台湾和菓子講習 賞 厚生労働大臣賞 日本菓子協会東和会会長賞 著書 飾り菓子十二カ月 製菓衛星師・菓子技能士受験問題集 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 講習が終わり、一関の駅に行ってみました。 ここで見たかったのは「大槻三賢人」の銅像。 三世代にわたる一関の賢人で、なかでも大槻文彦は祖父に仙台藩の支藩一関藩出身の大槻玄沢(同じく三賢人の一人)をもち日本初の近代国語辞書を編纂し、また編著『伊達騒動実録』は伊達騒動の基本資料となっている人物です。 また仙台一高の初代学長でもあり仙台にもゆかりがあります。 ちなみに父の大槻磐渓は仙台藩の藩校、養賢堂の学頭でした。
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コメント (1件)

  1. 鈴木綾子 より:

    ブログ拝見させていただきました。今度、鎌田克幸先生に練りきり教室をお願いしている者です。チラシを作成するにあたり、御社のブログの画像をお借りしたいのですがよろしいでしょうか。千葉県にて、子育て中の母対象の料理教室を主催している者です。

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あじさい寺へ(資福寺)

2012/7/2

そろそろ資福寺のあじさいが見頃かな~と思い先週の土曜日に見に行ってみました。 そこのあじさいはいつも周辺のあじさいよりも咲き始めるのがかなりおそいので、 お店の近くのあじさいも満開になってからしばらくたつので様子を見てきました。 お寺に行くと他にもあじさいを見にいらっしゃった方々が何人かいました。 あじさいのほうはといいますと、う~んもう少しかな? 5分咲きといったところでしょうか、あじさいにもいくつか種類があって いわゆる青い一般的な花は見頃でしたが、その他はまだまだといった感じでした。 とりあえず何枚か写真に撮ってみましたので見ていただけたらと思います。 (これがベストショットかも…)
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木町通二丁目について調べてみました

2012/6/29

熊谷屋が所在する場所、木町通二丁目。
店の前の通りは奥州街道、旧町名を北鍛冶町という。
そしてここの近辺には木町という地名と木町通一丁目という地名があります。
二丁目があるのだから一丁目があるのは至極当然、
しかしながら「通」という名が付いているのに二つの地域を貫いている通りは無い、
それが昔からなんか腑に落ちない感じが私にはありました。
地図上で二つの区域を確認すると国道48号線(作並街道)を境に南北にブロックが分かれ
さらに東西に少しずれているのがわかります。

そもそも通とはそこへ通ずる道という意であり、この場合「木町」へ通ずる道なのである。
木町通はもともとあった地名で大町二丁目あたりから北山の覚範寺へ至る通りを「木町通」と呼んでた、
そして「木町」は立町から定禅寺通櫓丁までの間を呼んでいた。
きちんとした名称は材木町で、そこは幕府より木材専売の特許を与えられていた、その後南材木町、北材木町(定禅寺通櫓丁裏)ができ本材木町という名に変遷した。

※現在でこそ大学病院から北山へ伸びる道路はトンネルへと続くが昔は手前で斜めに折れ撹範寺へと突き当たっていた。
これらのことから昔の木町通は現在の一丁目の真ん中寄りを縦断していることから、
二丁目に関しては縦断ではなく端が木町通に接しているということで地名が付けられたようだ。
(もちろん当時他にも新地名の候補があったが)
そして残る現在の「木町」という地名は単に木町通上にある地域だからその名をとっただけでそこがもともとの木町すなわち材木町とは関係ないのだという。


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コメント (2件)

  1. 菅原稔郎 より:

    本日、野蒜築港のことを調べていたら、2014/12/1付け本ブログに辿り着き、
    木町の植木氏(知人です)の祖先のお話や、さらには木町の地名の由来の謎が
    解けました。
    藩政時代、足軽屋敷が多かったあの界隈がなぜ「木町」なのか以前から疑問に
    感じておりました、お陰様でスッキリしました。ありがとうございます。

    1. admin より:

      コメントありがとうございます。疑問がすっきりしてよかったですね。ブログを書いた甲斐があります。

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六丁の目ってへんな地名だね

2012/6/21

仙台には六丁の目という地名があります。
一丁目、二丁目、…六丁目ではありません、れっきとした地名でございます。
へんな地名…、みなさんもそう思うでしょう。
でもちゃんとした地名の謂れがあるんですよ。
『鎌倉時代の中期、時宗(じしゅう)の開祖として名高い一遍上人が、諸国を遊行してこの地に来られ、ここで念仏弘通が行われた時、道ばたの平らな石に六字の名号即ち南無阿弥陀仏の文字を書かれた。ところがこの六字の銘がそのまま石に刻んだように浮かび出たのがこの碑であるということである。地方民はこれを「六字の銘」を読んでいたが、後世訛って「ろくちょうのめ」というようにたった。これがまたそのまま地名となったのが六丁目であるという。』
(仙台地名考 菊地勝之助著より)
※念仏弘通=お念仏を広め唱えること
この石碑は六丁の目コミュニティセンター前に建つ太子堂に祀られています。

南無阿弥陀仏の六字の銘は実際左右逆に書いてあります。


六字の銘が訛って六丁の目っていったいどんな訛り方したんだとお思いでしょうが、
六字の銘を別名、六丁の銘と言っていたそうです。


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かわいい小学生

2012/6/19

本日台風が九州に近づく中、仙台も雨が朝から降っていました。 そんな中、地元の小学校の児童(二年生)が「まち探険」と称して周辺の商店や銀行などをグループでまわってお店の人に説明を聞いたり、質問をしたりして社会学習をしました。 そして、当店熊谷屋にも小学二年生の児童たちがやってきました。 みんな傘をさしたりカッパを着たりして雨の中大変そうでしたね。 (でも雨で中止となるよりは子供たちはそれぞれ楽しめたことでしょう) ひとつめのグループがやってきてごちゃごちゃと質問が矢継ぎ早にむけられてあたふた(笑) ふたつめのグループはけっこうあっさり、いろいろ性格があるんだなぁ。 そして次に来たグループは二人で、また同じように説明しだすとなにやらニヤニヤさっき聞いたよという顔をしてる。 よく見たらひとつめのグループにいた子でした。 「どうしたの?」と聞くと 「雨でカッパが滲みて服が濡れてくるから、カッパを掛けるものが欲しい」ということだそうだ。 大人だったらずうずうしい?ことですが、まぁまぁ小さい子供のすることですからそれはそれでかわいいな。 とりあえずハンガーを奥からひっぱり出してきて二人に渡しました。 教室に戻ったら掛けるのかなと思ったら、 店の中に掛けようと掛けれそうな箇所をさがしてる(えっ!?) 「ここ(自動ドア脇にある紐)にかけようかな~」 「あそこ(おせんべいを陳列するのに入れている籠)にかけようかな~」 あわてて 「おいおい、そこはダメだよ!おじさん持ってるよ。 それで、このあとどうするんだい?」と聞くと、 「次はマリーン薬局に行く予定だから、そのあと戻って取りに来ます」 「あぁ、そうなのね… って、それじゃ余計濡れるじゃない!(汗)」 ということで結局大きな透明なビニール袋を持ってきて頭と腕の部分を切り抜いて中に着せましたよ。 この年頃の子たちは大人が考えもしないことをやりだすからおもしろい。 男の子と女の子の二人でかわいかったなぁ。

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遠見塚古墳

2012/6/19

古墳といえば「仁徳陵古墳」などが有名ですが、仙台にも立派な前方後円墳があるんです。 それが若林区にある「遠見塚古墳」です。 国指定史跡 遠見塚古墳 仙台平野の真ん中、南小泉遺跡(弥生・古墳時代の集落跡)の中に造られた全長110mの前方後円墳で、東北地方では第3位の規模をもっている。  古墳の形式、構造、出土遺物から見て、4世紀末~5世紀初めごろの墳墓と考えられ、東北では2番目に古いものである。被葬者は当時、すでに強力な政治、経済力を持ち、畿内との関係を保ちながら、広く仙台平野の王として君臨していたことを示す遺跡である。(史跡説明板より) 石碑の向こうに見える地表のふくらみが古墳で左奥が円形部分で、右手前が方形部分です。 さらに円形部分に上るには階段がありますが、これは当然後から設置したものでしょう。 上から下方を見下ろした写真です。 上空から見るとしっかり鍵穴の形をしてますね。 ここは古墳がど~んとあるだけで他に何があるわけではありませんが、 こうして古墳の土に手を当ててみると4世紀からの壮大な歴史が感じ取られるような気がしてとてもわくわくするのは私だけでしょうか? 実はここに古墳があることは以前から知ってはいましたが、なかなか見に来ることが出来ませんでした、 またみなさんも同じように知ってはいたものの見たことないという方は多いと思います。 でも一度でいいですから、来てみてください、なんか現代の世の中でせわしなくしている自分がとてもちっぽけに思えて、そして約16世紀もの間ここにこの古墳が存在していたことを感じとれるでしょう。 すぐとなりにある遠見塚小学校に続く桜並木もその季節になると綺麗なのでしょうね。 ここの児童がうらましい。(4月初めに撮影)
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~絆~物産市場

2012/6/18

6月17日、日曜日 イオンモール秋田にて「~絆~物産市場」という催し物がありまして出店参加して来ました。 秋田青年会議所さんが主催の事業でした。 イオンモール内の1Fセントラルコートで行われ、宮城の他青森、岩手、福島の4県のお店が参加し、宮城からは熊谷屋の他白石温麺のきちみ製麺、牛タンのべこ政宗、焼物の堤焼など。 イオンモールに来たお客さんがセントラルコートに立ち寄ってくれておかげさまで皆さんたくさん買ってくれました。 感謝です! 秋田の皆様が被災地のものを買うことによって復興を手助けし、復興支援を風化させないようにすることがこの事業の目的だそうです。 仙台コンベンション井龍さんが仙台の観光をPR でも仙台から秋田まで往復6時間、日帰りはちょっときつかったなぁ。 もちろん何も見る時間も地元のお土産を買う時間も無かったです。(涙)

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