仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

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仙台の西四番丁はどこにある

2018/4/10

北四番丁 東二番丁 はあるけれど西と南は?
熊谷屋は北四番丁通りから青葉神社方面へ少し入ったところにある。
地下鉄北四番丁駅は北四番丁通りと東二番丁通りの延長(勾当台通り)との交差点にある。
多少無理矢理な話の入り方だが、
まず北四番丁の「丁」は侍屋敷が並ぶ通りを指し、北鍛冶町などの町は商人などの住む通りを指します。
東二番丁も然りで、東に行くにしたがい三番丁、四番丁…と付けられ、北も一番丁、二番丁…とある。(東一番丁は現在東一番町変わっている)
では西二番丁や南四番丁とかもあるのでしょうか?今まで聞いたことがありません。西と南は無くて北と東だけなのです。片方だけってなんか変な感じがします。北鍛冶町に対して南鍛冶町がありますし(元の鍛冶町が北と南に別れた)、対になっていないのはなんか気持ちが悪い。
実はちょっと考えればわかることなのですが、これは仙台城のある地形を中心に考えると合点がいきます。仙台城は青葉山にあり自然の要害とも言われています。前には広瀬川、後ろには竜の口渓谷の断崖絶壁、城下町はそんな広瀬川を越えた向こう側につくられました。無論断崖絶壁に町は作れないので自然と城の東側、北側となるのです。
そして開府当初の仙台藩の城下町の一番外れは現在の市役所がある辺りです。時代とともに城下町は拡張され東へ北へ徐々に広がりそれぞれ一番丁、二番丁、三番丁…、と新しくできたのです。
これですっきりしましたでしょうか?
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「風の時編集部」より

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青葉まつり2017

2017/5/21

平成29年5月20日21日と今年も盛大に青葉まつりが開催されました。

特に今年は伊達政宗生誕450年という記念の年です。

天気も青葉まつりのために晴れたような天気でとても暑かったです。
大太鼓を先頭に神輿渡御は青葉神社から出発して青葉神社通り二日町国分町と練り歩きます。

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稚児行列もみなとてもかわいいですね。

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その先一番町四丁目商店街を通り藤崎でおおまちアーケードに入ります。

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後半は東二番丁通りから定禅寺通りを歩きます。
長丁場、神輿を担ぐ人たちはかなり大変だったでしょう。

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オリンピック バドミントン金メダルは伊達の精神で勝ち取った!

2016/8/27

2016年、リオオリンピックのバドミントンダブルスで見事金メダルを獲得したタカマツペア、おめでとうございます。

高橋選手と松友選手といえば仙台市にある聖ウルスラ学院英知高等学校出身ですが、
その一本杉キャンパスの敷地はもともと伊達伯爵家邸宅がありその建物を最初使用していました。
伊達家とゆかりがあるということもあり今も授業で、伊達藩作法を学んでいるそうです。



その伊達家伯爵家邸宅について書きます。

もともと家臣佐々氏のもので、最後の第14代伊達藩主 (30代当主)伊達宗基が版籍奉還以後仙台城より移住する際に
家臣佐々氏の下屋敷を買収したものです。
聖ウルスラ学院て使用していた建物は
その後、邦宗が明治38年(1905)に建て替えたものです。
ちなみに宗基は慶邦の四男ですが、
同じく慶邦の七男31代当主邦宗は養種園を敷地内に開き(現在若林区役所の敷地南側)昭和の終わりまでありました。現在は農業園芸センターへ移転しています。私も幼い頃親に連れられてチューリップを見に行った記憶があります。

建て替えられた屋敷の設計は山添喜三郎によるもので、山添喜三郎という人物は新潟出身の船大工で初めて欧米に渡り西洋建築を習得し、明治5年に開催されたウィーン万博博覧会の日本建築の設計監督を任されたました。 他に三居沢発電所の建物やや登米尋常小学校なども手がけたというすごい方です。

伊達家伯爵邸の建築資材は樹齢200年以上の上質の杉材が用いられ重厚な造りとなっています。
昭和22年、昭和天皇の行幸の際に宿泊所となり、一時知事公館ともなりました。
聖ウルスラ学院の施設として使われるようになったのは昭和58年になってからです。

その後仙台市に寄付され、
現在その建物は旧伊達邸として茂庭の鐘景閣に解体復元され、今もなお見ることができます。

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松島 円通院

2014/10/26

10月の終わりの日曜日、松島の紅葉はどうだろうと出掛けました。

瑞巌寺の隣に位置する円通院はまだ訪れたことがなかったので、紅葉の時期はさぞかし綺麗だろうと期待して訪れました。

松島町指定文化財・円通院本堂は映画「蜩の記」のロケに使われ、もともと仙台二代目藩主忠宗公の子で光宗の江戸での納涼の亭でした。光宗は19才という若さで亡くなり、それを悲しんだ忠宗公が正保4年(1647)、解体し江戸から移築したもので、「大悲亭」と名付けられました。

 




紅葉はまだまだでしたが、緑の苔や竹林がとても素晴らしかった。
この庭は小堀遠州作といわれています。

 

 


途中薔薇園がありましたが、寺院に薔薇園?となんとなく不思議に思いました。
(薔薇園の写真を撮り忘れてしまいました)


庭園の奥には三慧殿(さんけいでん)という御堂がありその中には光宗の御霊屋があります。
この御霊屋は国定指定重要文化財になっていて、大悲亭移築の一年前に建立されましたのですが、これに使われている装飾はとても変わっていて、洋薔薇や、水仙、トランプの4種のマークなどが描かれていました。

 


これはローマを象徴する薔薇、フィレンツェを象徴する水仙など支倉常長の慶長遣欧使節が持ち帰った欧州の文化が描かれていたのです。
しかし、当時鎖国制度が施行されていたため扉を開けることがなかったそうです。
そうしたこともあり、中の装飾の色彩が現在も当時のまま鮮やかに残っているそうです。

また忠宗公も常長の功績、父政宗公の思いたを酌んでいたのかもしれませんね。


これで薔薇園も納得しました。


紅葉のライトアップは11月に行われてるそうです。


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新!?現存する最古の学問所

2014/10/4

岩出山の有備館に行ってきました。
ここへ行くのは初めてで、正直あまり詳しく知りませんでした。

ただ、岩出山は政宗公が仙台に入城する前の居城としたところなので何かあるだろうぐらいの知識で、有備館も伊達家と関連のある建物というぐらいでした。


行く前に有備館の場所を調べてみるが、いまいち場所がわからない。
なぜなら旧有備館の場所なら地図に載っているのに新有備館の場所がどうしても見当たらない。
しかたがなく有備館駅を目指し、そこで何か情報を得られるだろうと考えました。
有備館駅というくらいだから新有備館はそんなに遠くないのだろう。


駅に着くと昔仙台駅のステンドグラス前にあった政宗公の騎馬像がありました。



ふと周りを見渡すとなんだか駅らしくもない、観光案内所?
なんと向かいに有備館らしき敷地があるではありませんか。
しかしやはり「旧有備館」と書いてある。

有備館は震災後、修復のために改装工事をしているとは聞いていたので、シートに覆われた建物、おそらくこれが有備館なのだろう。
それにしてもなぜ旧有備館というのか?どうしてもモヤモヤするので受付の女性に聞いてみました。
すると 有備館とは建物の名前でしかも学問所として使われていた頃の名称だとか。もとは岩手山伊達氏2代宗敏の仮の屋敷でしたが登録の際の名称として、学問所として使われていた現存する建物としては日本でもっとも古く価値ある建造物ということでその名で登録になったとか。つまり元○○小学校の建物と同じ意味で旧有備館としたそうです。

やっとモヤモヤが解けました。
それにしても「旧」とは紛らわしいですね。他に史跡を調べてみたら建物などは皆 旧がついていました。

 



現在は建物が修復中で見れないということで庭園観覧は入場無料でした。
中庭にはさすが樹齢何百年という木々がたくさんあります。

 


池の向こう岸にシートで覆われているのが有備館です。



今度は工事が終わったらまたゆっくり来ようと思います。今度はちゃんと旧有備館目指して。

帰りに花山太右衛門商店で名物の酒まんじうを買って帰りました。とても香りよくて美味しかったです。

 


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仙台藩第4代藩主綱村縁の二本松

2014/1/6

以前四ツ谷用水を辿った時に見た松の木

ここは土橋通沿いにある宮城県看護協会会館・看護研修センターの敷地で、その昔仙台藩四代藩主伊達綱村公が水鳥を飼っていた御飼鳥(おかいどり)屋敷があった跡で、当時の松が現在もなお残っているということでとても感慨深いものがありました。
しかしながら、先日見た時には無くなっていてとても驚きました。少し前に松が病気にかかっているという話を聞いたことありましたがまさかこんなに早く無くなるとは…。

宮城県看護協会会館・看護研修センターで話を聞くとやはり2013年の11月30日にやむなく切ってしまったそうです。
仕方が無いことです、その松を見れただけどもよかったと思うしかありません。
よく見ると切り株が二つありました。説明文には「二本松」と書かれており、そもそも二本あった両方とも枯れてしまったということなります。


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勾当台とはいかに

2013/12/5

勾当台ってよく考えたら変な名前ですよねぇ。仙台に生まれた時から住んでいて今まで普通に勾当台公園って呼んでいました。

ところで仙台には市街地を横断する三つの主な道路がある、
青葉通、
広瀬通、
そして定禅寺通。
青葉通はわかる、杜の都仙台だから。
広瀬通もわかる、広瀬川流れる岸辺〜♬
定禅寺通の定禅寺ってなんだ?お寺なんかどこにもないぞ。
昔はあったんです、しかも重要な場所に。
現在の勾当台公園の裏あたりに定禅寺というお寺がありました。それは青葉城から見て鬼門に位置する場所にありました…しかしながら明治になって…明治6年に廃寺なってしまったのです。
 古刹(こさつ)定禅寺は京都三宝院の末寺で、永正年間(1504~21)に融済法印を開山とした真言宗であった。
 伊達政宗が仙台開府に当り、城の鬼門にあたるので、真言密法の祈願時として定めた。寺領六十六石を給して着座格に列し、仙台における真言宗三寺の一として重きをなした。住持はしばしば藩主の連歌の席に連なるなどのことがあり、伊達家の帰依も篤かったが、宝永五年(1708)正月の大火に堂宇がことごとく炎上した。さらに明治維新後は藩の外護(げご)を失って衰頽(すいたい)し、かつ明治六年に至り仙台鎮台病院をここに移すことになったので、ついに廃寺となった。定禅寺跡には戦災(昭和二十年七月)の時まで、古木として有名な定禅寺桜があった。
 定禅寺通は本材木町からこの定禅寺門前に突き当たる通りということから起った地名である。
(仙台地名考 菊地勝之助著より)

定禅寺に続く道として定禅寺通という名が残ったのです。定禅寺は現在の勾当台公園の裏の方にあったそうです。
で、危なくスルーするところだった勾当台公園の勾当台、よく見ると変な漢字の集まりですね。勾は勾配の勾?当はあ当る?台は公園の奥が高台になっているが…。よくわからない。
調べてみると、勾当とは盲官の位階の一つで、上から検校、別当、勾当、座頭の順でした。
(※盲官:盲人で琵琶・管弦・鍼・あんまなどを業とした者に与えられた官名。)
座頭市は座頭の市さんだったんですね、なるほど。
勾当台とは花村勾当という盲人の狂歌師からきた地名だそうです。
花村勾当の屋敷があった場所で芭蕉の辻から見て高台であったため勾当台と呼ばれるようになったということです。確かに公園の奥、野外ステージがあるところは急に高くなっている。屋敷は現在の公園の東側から北側の高台にあったそうです。
花村勾当という人物は
ある時伊達政宗に名前を尋ねられると
「なに一字 ちがいありとて ことごとし きみは政宗 われは政一」
と即興の歌で答えた。この粋な返しにとても気に入った政宗は、その狂歌の才を愛でて、勾当の役職と屋敷を与えた。
現代だったらこのステージに上がってうたうのか(笑)ある意味聖地?

不思議な地名を紐解くと意外なおもしろいことがわかりますね。
ちなみに現在の勾当台公園は以前ブログに書いたように、地下鉄の開通に合わせて道路を作るために削られました。
削られた…、正確には分断されたのです。
昔の航空写真を見ると南西角の部分が今もなお残っているのです。
それはどこかというと毎年光のページェントで定禅寺通りの角に聳え立つ木に大きな(au協賛の)電飾がつけられてますよね、その木こそが以前の勾当台公園の南西角にあったヒマラヤシーダなのです。場所は変わっていません。
昭和50年の勾当台公園

昭和59年の勾当台公園(地下鉄南北線工事の様子)

現在の勾当台公園

今年の冬はまた違った感じで光のページェントを見ることができそうです。
【おまけ】
勾当台公園の一部には「古図広場」というところがあって昔の養賢堂の門の前に位置します。またそこには昔流れていたという四ッ谷用水の復元水路があります。単なる憩いの池じゃないんですよ。
古図広場という名だけあって林子平の銅像があったり、昔の通りの名前の地図があったり、また仙台城下をイメージした立体的な地図があります。ちょうどバスの停留所の裏、もしくは地下鉄の出入り口にあるので人は通るのですが通り過ぎる人がほとんどです。ちょっと立ち止まってちょっとの間、昔の風景を思い浮かべてはいかがでしょうか。


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「仙台だいすきフェア」に出店してきました

2013/10/14

10月の12日・13日に東京駅丸の内南口を出るとすぐ目の前にあるKITTE(JPビル)内東京アイシティにて
「伊達美味」(仙台の美味いもの)を広めるイベントに参加してきました。
伊達武将隊もとても盛り上げていただき、盛況の中終わることができました。
私は伊達武将隊をまともに見るのは初めてで、ステージもとても楽しく拝見させていただきました。
伊達美味特派員のちーちゃんと一緒に伊達美味をみなさんに説明する支倉常長公、それぞれの仙台の美味いものに対して味形はもちろんのこと、背景歴史まで詳しくおっしゃっていたのですごいなぁと思いました。

景綱公、支倉公、与六さん等が売場の方まで来てお客さんにいっぱい勧めてくれました。
商品対する知識も大したもので、もう代わりに売ってもらってもいいぐらいでした(笑)。


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荒町の魅力

2013/6/21

先日、仙台市歴史民俗資料館主催の『小さな旅 見学「荒町界隈を旅しよう」』に参加してきました。
開始時は雨が降っており移動も傘をさしての移動。

まず最初は「森民酒造」さんへお邪魔しました。(お休みの日にもかかわらずご主人が案内してくれました)


森民酒造さんは勝山さん、天賞さんが郊外へ移転した現在唯一城下町に残る造り酒屋なのだそうです。
それにしてもこんな街中に今もあるということが不思議でしたが、ご主人のお話を聞くととても納得のいくものでした。
もともと荒町は御譜代町の一つで、本荒町(現在の一番町二丁目、元仙台 エクセルホテル東急のあたり)にあったものが現在の場所に移ったそうです。
ちなみに御譜代町とは大町など6町あり、伊達家に従い伊達郡、米沢、岩出山と経由して仙台に移ってきました。
ではなぜ本荒町から現在の荒町へ移ったのかというと、荒町には麹を作る役割があり本荒町という土地は水質が麹を作るのに向かなかったため水質の良い現在の場所へ移ったという説があるそうです。確かに荒町には孫兵衛堀(川村孫兵衛重吉は四ッ谷用水の建設にもかかわった人物)が流れており、また地名にも清水小路とあるように水源が豊富だったことがうかがえます。染師町があるのも納得、昔は孫兵衛堀で染物をしている風景が見れたそうです。
もちろん酒造りには川の水を使うのではなく地下深くより汲み上げた井戸水(この水は山からしみ込んだものが40~50年かかって濾過されたものだそうだ)を使っておいしいお酒を造っているのだそうです。伊達政宗はお酒をこよなく愛していた人ですからね、力の入れ方も相当なものだったでしょう。
森民酒造さんの建物自体は創業前からのものでもともと麹屋さんの建物だったそうでかなり古いそうです。
柱や梁には菌がびっしり着いているのでしょうね。

次に向かったのが森民酒造さんの裏手にある昌傳庵と仏眼時

二つのお寺は荒町公園でつながっており、車通りの激しい表通りから少し奥へ入っただけで何とも静かで緑豊かな別の土地に来た気分になります。(奥に見える緑が生茂っているところは森民酒造さんの酒蔵)

荒町はこのあと訪れる奏心院、満福寺…とけっこうお寺あるんですね。表の通からはなかなかわかりませんが、ちょっと奥に入るとたくさんのお寺があり、荒町はお寺の町でもあるんですね。これも新たな発見でした。
荒町のメインストリートはかつての奥州街道で町人の町、昔の地割(間口6間奥行25間 うちもそうですが)の名残が(写真左側)今でもうかがうことができます。さらには(写真右側)時代とともに半分の3間になった土地も多くあるそうです。

次に向かったのが「佐藤麹味噌醤油店」さん。
先に述べたようにここらへん一帯は麹屋さんがもともと多かった、最近まで2件残っていたそうですが、銭形屋さんが店を閉め、現在残っているのが佐藤麹味噌醤油店さん。
佐藤麹味噌醤油店さんは米沢、岩出山と御譜代町とともに移り住んだところで大変歴史のあるところです。
たくさんの麹屋さんがひしめき合っていた中それぞれが競合しなかったのか?という素朴な疑問。
店ごとに担当の地域を決めていたそうで、佐藤麹味噌醤油店さんの場合は六郷と七郷方面だったそうです。

明治35年に酒税法が施行されると一般の家庭ではお酒を造ることができなくなり、それ以降は麹の需要が減り味噌造りの方に力を入れるようになったとか。
また店舗脇にはレールが敷いてありトロッコに載せ重い材料を60mある奥の工場まで押して運んでいるそうです。

次に訪れたのは仙台箪笥の「門間箪笥店」。
中には入りませんでしたが中庭を見学しました。建物も裏の作業場もとても古く年季の入って箪笥ともどもいい仕事しているなという印象を受けました。現在も若い人から年配の人まで一人前の指物職人目指して頑張っているそうです。

そんな創業当時から変わらぬ場所で商売をしてきた門間箪笥店さんですが、道路整備事業で建物が危機に立たされているそうです。
建物は平成14年国の登録文化財に指定されたのにどうするんだろ。
あの高架の先(手前)が建物の脇に来るのですがさらに高架の脇にスペースを取らなければならず、その範囲に建物一部が重なるそうです。仙台市もなんとかしてほしいものです。

門間箪笥さんから移動して泰心院の前まで来ました。
ここの山門はなんと仙台藩の藩校である養賢堂(現県庁あたり)の門が移築されたものなのです。
屋根の上部には三引両と九曜紋が施されています。初めて見ましたがかなり大きく存在感のあるものです。昔の人はこんな立派なものをよく作ったものだなぁと感心するとともに、それが今なお現存していることに感動しました。

なぜここに移築したのかという記録はまったく残っていないそうです。戊辰戦争のころこの門が払い下げになっていたという事実だけが確認されるとのことで、旧藩の物を保存するという行為があまり公になっては困るということで記録を残さなかったのではないかとも推測されるとか…。
さらに次に向かったのは荒町で忘れてはならない毘沙門堂
ここには北目城から移ってきた毘沙門天が祀られています…ということは知っていたのですが、
ここで相撲が行われていたのは知りませんでした。かの有名な仙台が誇る横綱谷風もここで相撲をとっていたそうです。ちなみに谷風は当時近くの七郷掘りの泥さらいをしていたところ巡業に来ていた相撲部屋にスカウトされたのがきかっけだそうです。堀の掃除をしている姿を見て屈強な青年がいると。
また昔からここは人の往来が多くコミュニケーションをとるのに最適な場所だったようで
「奇縁二天石(きえんにてんせき)」という石碑が建てられました。
よく見ると後ろに「たつぬる方」表に「をしゆる方」と書かれています。
これは尋ねる方が求人の張り紙を貼り、教える方が(こういう人いるよと)情報を貼るといった具合に使っていたそうです。それだけ人の往来が多かったということで、大正時代には仙台で最初の数少ない公衆電話がここに設置されたことからも想像できます。

最後に向かったところは…
七郷掘りから六郷掘りへと分岐するところを見ながら

舟丁にあるしだれ桜の綺麗な駄菓子屋さんへ行きました。

ここでは工場のうらにある史料館を見せていただきました。(ここは一般の方でもお店の人に声をかければ見ることができます。)

その中にある「熊谷屋」

雨も最初だけでだんだん日が差し、終わるころには暑くてたまらないくらいでした。
今回荒町をあるいて荒町の存在自体の歴史がとてもよくわかりました。そして講師をなさって下さった西大立目祥子さんの町の歴史に対する思いもすごく感じ取れとても勉強になりかつ楽しい一日でした。
<参考:西大立目祥子さんの著書>

帰りに、見学したお店のお味噌とお酒を買っていこうかと思いましたが、森民酒造さんは土曜日お休みで閉まってしまいました。でも同じ荒町の通りにあるお酒の種類が充実した及川酒店で購入できましたよ。
今回の荒町さんぽのルート


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盡忠(じんちゅう) 伊達安芸宗重と涌谷要害

2013/6/1

伊達安芸という人物は伊達騒動(寛文事件)の中心的人物で、伊達兵部宗勝と争い最終的に兵部派の原田甲斐の乱心により殺害された。 今回、涌谷町立史料館にて伊達安芸ゆかりの品を5月末まで特別展示しているというので行ってみました。 まずは伊達宗重公祀り神号を赤心猛雄命と称する涌谷神社を拝観。 伊達安芸宗重公胸像 一応、涌谷町立史料館と読みます… 涌谷町立史料館は涌谷伊達家の城跡にある天守閣を模した建物で… 隣には仙台藩に残る貴重な天保4年(1833)建立の鼓楼建築の櫓があります。 あとから知ったのですが、涌谷町立史料館は震災で旧館していて今年4月15日に再開館したばかりだったそうです。 史料館に入り目当てのものは2階にありました。 それは「盡忠」の掛軸と銘舎利容器。 「盡忠」の掛軸は伊達安芸の死後、伊達家四代目綱村が宗重公の忠勤を讃え自らの筆で書いたもの。 写真では見たことありましたが本物を目の前にして何とも言えぬ感動です。 寛文事件の集約がこの二文字に表れているようにすら感じました。 そしてさらにもう一つ、 宗重の分骨した遺灰を収めたとされる香炉および曲げ物の容器。 これは震災の影響で見龍院にある涌谷伊達家墓所の門脇に立つ石造五重塔がずれたため平成24年7月に修復するのに解体したところ内部から偶然発見されたものだそうです。 とても綺麗な状態で保存されています。 その他にも史料館には畳4〜5畳くらいはある当時の領地を記した地図があり、とても見応えのあるもので、現在の仙台市内の地名も当時は村であったことが伺えます。 この地図は仙台藩全領土が描かれており北は岩手県水沢辺りまで載っていました。 そして寛文事件の発端のひとつとなった桃生郡(登米)の伊達式部と遠田郡(涌谷)の伊達安芸が新田開発の際に領地境を争った名鰭(なびれ)沼がその地図で確認できたのが嬉しかった。 ちなみに3階は展望室になっていて見晴らしが良かったですよ。 感動覚めやらぬまま、次はいよいよ伊達安芸の菩提寺である見龍寺へと向かかいました。 こちらが見龍廟の門です。 そして脇にあるこの五重塔の中から遺灰が見つかったのです。 この塔は伊達安芸宗重の三回忌に建立されたそうですが、本塔は両墓制における参り墓のような役割を担ったものらしいです。三回忌に…、ということはそれまで遺灰をそのために取っておいたのかそれとも建立時に霊屋から取り出したものなのか、どっちだったのだろう。 中も是非見たいなぁと思ったのですがあいにく門は閉まっていました。そして住職さんも留守のよう…。 たまたまお墓参り来ていた方に話を伺うと普段は開けていないが住職さんがいれば開けてくれるとのこと。 遥々来たのに見れなくて残念です。 仕方がないので塀の上から写真だけ撮りました。 どれがどれだかはわかりません…。 今度、また見龍寺に来よう。そして次回こそは見れますように! 涌谷はとてもいい町でした、自然もいいし、町もレトロな感じで良さそうなお店がたくさんありました。 今度、ゆっくり見て回りたいですね。 登米も行きたい、原田甲斐のお墓があるので。
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