仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

2013年2月のアーカイブ

商品撮影

2013/2/20

今度ホームページをリニューアルするのにあたり、商品の写真もあらためて撮影することになり、私も立ち会わせていただきました。
現在あるホームページの商品写真は制作当時の普通のデジカメで撮ったので今のデジカメの方がもっと綺麗に撮れる。(これでもかなりの時間費やして大変な思いで撮ってもらったんですよ)
しかしさすがにリニューアルするのにカメラは進歩したといえども拙い私、素人の腕ではどうも…ということで、
今回はプロの手に委ねました。
自分の時もそうでしたがうちのパッケージは光の反射が大敵なので、それに苦労していました。
素晴らしい写真ができることを期待しています!


 


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札幌丸井今井 全国うまいもの大会

2013/2/19

2月18日より始まりました、 丸井今井札幌店での全国うまいもの大会 今年もずんだ餅の実演をやっておりますので、お近くの方は是非いらっしゃってください! 開催は3月3日までです。 ←ポチッと押してください! クリックお願いします!


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仙台の偉人、菅克復って人 知ってます?

2013/2/5

うちの息子は現在小学4年生なのですが、先日こう聞かれました。
「お父さん、菅克復っていう人知ってる?」
その名前を聞いてドキッとしました、それと同時に何とも言えない高揚感をおぼえました。

菅克復という人物は天保八年に一関・田村家の家臣の家に生まれた。その後 伊達茂村(もちむら)側近に抜擢され仙台藩士となりました。
維新後、困窮した生活をしいられていた旧藩士たちをみて、救済すべく当時注目されていた紡績業を始めた。私財をなげうって機械をを購入し自らの屋敷(北三番丁:詳細な場所は不明)で明治七年家内工業として士族の子女たちを雇った。
その後明治政府は殖産振興のため十二機の紡績機を導入し、そのうちの一機が東北に配置された。
それが、のちに北三番丁より水力を動力とするために三居沢に移転した宮城紡績会社だったのです。
ここでいくつか私なりの疑問が生じました。
1.現在の水力発電を行っている水源は広瀬川の郷六の方より長い隧道を作って水を引いていますが、当時機織りだけのために最初からそのような距離の設備工事がわざわざ行われたのか?
2.三居沢水力発電所の脇にある不動尊の裏手の大滝は水力発電の水源と関係あるのか?不動尊内には最古の石碑として寛永十一年というから時代が合わない。
3.現在使われている大きなパイプの隣に旧隧道出口と書かれたレンガ造りの穴があるが、位置がかなりおかしいのではないか。
そこで「三居沢電気百年館」に足を運び、入り口にいた係りの方(館長さん?)にダメもとで話をお伺いしたところとても親切に詳しく説明してくれました。
1.三居沢に紡績会社が移転した当時、場所は仙台市交通局川内営業所内の奥の場所だったそうです。
そして、広瀬川から引いた隧道はちょうどすぐ山の裏側でさほど距離は無かったそうです。
←こちらが当時の工場を描いた絵ですが、入り口の門の辺りにある松の木が今でも一本だけ残っているそうで、それが下の写真です。

2.よくよく地図を見たら全く違う水源でした(汗)
3.三居沢電気百年館の裏手に回ると山から駆け降りるパイプがよく見えるのですがちょうど百年館の真裏に明治三十三年当時隧道出口があり向きも現在の発電機の方向とは全く違う向きなのです。係りの方に話を聞くと先ほどの仙台市交通局の場所から規模を大きくするために移転したそうです。そしてその場所が現在の三居沢百年館がある場所。そして館内には日本で第一号となる水力発電機のレプリカが展示されています。当時の場所に置いてあるというのも何か感慨深いものがあります。
その後洪水に遭い工場は流されてしまい、電力の需要増加も伴い現在の場所に第二号を創ったそうです。
現在も現役で稼働しているなんてすごいですよね。
旧隧道

第一号機 (三吉電機製)

三居沢電気百年館

なるほど、謎は解けた!すっきり(´∀`)
菅克復は先見の明があり地域振興に尽力し、県会議員、仙台市議会議長など就任し行政にも活躍された偉人でございます。
知る人ぞ知るという人物ではありますが、仙台の偉人としてこれを機に知っていただければと思いまた仙台の誇りにしてほしいです。
またこうやっていろいろ調べてから三居沢百年館などの施設に行くと百倍楽しめますので、ぜひ参考にしていただきたい。
発電所を造るまでの経緯は…
仙台に鉄道が開通後の明治二十二年二月、料亭「挹翠館」(ゆうすいかん:のち仙台市民会館の前身となる)にて経済人たちがあつまり仙台の電気事業について話し合われた。その後すぐ東京へ赴き電気会社の調査を行い、当時の日銀総裁であった富田鐵之助の助言を求めました。しかし富田は東京でも事業は始まったばかりで不測の事態も起こりかねないので時期尚早と助言をした。
しかしながら
調査に参加したうちの一人菅克復は自分の工場だけでも電灯をともし暗くなっても働けるようにしたいと、東京で小型の発電機と電灯をなんとか購入した。そして明治二十二年六月二十八日に機械が取り付けら、七月一日に東北で初めて明かりがともされた。
あたり一面真っ暗な中 烏崎山頂から工場内までぼんやりと明かりの点がいくつも見え、当時は狐火と思われたそうです。
冒頭の話に戻りますが、
実は、ついこの2~3日前に私も「菅克復」という名前を知ったばかりだったのです。
先日三居沢の大滝を見に行ったあと気になって三居沢発電所について調べていました。
その際に出てきたのが「菅克復」という人物。
詳しく息子に聞いてみると、学校で担任の先生ではなく算数と社会に限ってさらに精通した先生に教わっているそうです。そして、そこで教わるのは教科書には書いてあるもの以外に郷土史もなのだそうで、その中で三居沢の宮城紡績会社を設立した「菅克復」について学んだようです。
「菅克復」なんて仙台の人でも知っている人はほどんどいないと言っても過言ではないと思います。菅克復氏のお孫さん、申し訳ありません。(汗)
さらには「富田鐵之助」「一力健治郎」についても教わっているそうです。
こういう郷土史を教えてくれる先生っていいですね。また息子もそういう機会に恵まれ素晴らしいと思います。

 


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コメント (1件)

  1. admin より:

    菅克復さんのお孫さんがお店にいらして、菅克復の菅と管の間違いを指摘してくださいました。
    残念ながらその時私はお会いできなかったのでもしこのコメントをご覧になりましたら、ご連絡をいただくかまたお越しいただきたいと願っています。いろいろお話を聞きたいのでよろしくお願いします。

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