仙台人が仙台を好きになるブログ(熊谷屋ブログ 駄菓子屋さんです。)

2014年9月のアーカイブ

日本初の公共図書館「青柳文庫」は仙台にあります

2014/9/2

先日たまたま一関博物館に行った時に
新一関図書館オープン記念でテーマ展が開かれていて
ちょうど学芸員が説明をしてまわっているところに参加することができました。

テーマ展の内容は「版木と和本の世界」というもので
かの大槻家の旧蔵していた版木を中心に展示されていました。
建部清庵の「民間備荒録」や大槻磐渓の「合衆国小誌」や蘭学の本、
そして田村建顕に関するものまで様々でした。

当時の製本する際の木版が展示され、中でも蘭学や詳しい地形を記したものは見てて気が遠くなるほど細かく彫られていました。もちろん1頁で色別に数種類作られます。これは元の絵を描く人より彫る人の方がすごいのではと思うほど見事なものでした。

学芸員の説明を聞いていると何か聞き覚えのある名称を耳にしました。
それは「青柳文庫」日本で最初の公共図書館です。

どこにあるのかと申しますと現在大きなビルが建っている仙台の一番町4丁目にある東二番丁スクエアの場所です(元仙台中央警察署)。


ここには看板と本の形をした碑があります。


一関に来て仙台のしかも近所の話を聞くとは思っていませんでしたので驚きました。
実は青柳文庫を作った青柳文蔵という人物は松川村(現一関東山町松川)出身だったのです。松川村は一関藩と仙台藩の境目で彼は仙台藩の人間で医業を営む家に生まれました。医師の勉強のため江戸へ行きましたが生活費などを稼ぐために仕事が忙しく、また本を買うお金もなく志半ばで医業の道を諦めざるを得ませんでした。しかしその後公事師(弁護士)になり、かたわら金融業で財をなすこととなりました。
お金がなく学問を諦めなければならなかった過去を悔やみ、これまで買い求めて来た書物を千部余り献上して文庫を創設しました。

当時の青柳文庫の建物(東二番丁スクエア建設の際展示されていたもの)
入り口のひさしは東山図書館の入り口に再現されています。
http://www.library.city.ichinoseki.iwate.jp/guide/higashiyama/index.html



過去に閲覧できる書庫はありましたが、みな城内や学内など限られた人しか借りることはできませんでした。
青柳文庫は仙台藩の医学校構内に創設されたものの身分に分け隔てなく学問を志すもは誰でも借りることができ、これが公共図書館の始まりとされています。(明治維新まで存続)

私は場所こそは知っていましたがどこの誰がどういういきさつで建てたのかまでは知りませんでした。公共のものだから公共の機関が建てたのだろうぐらいにしか考えていませんでした。
天保二年に創設され文蔵は天保十年に亡くなったので晩年のことでこれまでの悔しい想いが果たされたことでしょう。


しかし本来であれば文蔵の願いは郷里松川村に青柳文庫を創設したかったと。
文政十二年9月27日に仙台藩に提出された伺書にその旨が書かれていたことが大槻文彦によって記録されています。しかしながら藩に却下され仙台城下に変更になった。
文蔵は文庫の創設と同じ年に松川村に、凶作に備えた籾倉(もみぐら)である「青柳倉」を設けています。これは東山の百姓のうち困窮している者に低利で貸し付け、秋に収穫した物で返済し倉庫に蓄えることで、図書館の費用にあてたそうです。また万が一飢饉の際は百姓を救うためにそれらを使用することとしている。文蔵の郷里への想いがわかります。
ここでおもしろいのは「(飢饉の際は…)但し、一関藩領は除く」とあるところで、松川村は一関藩領と仙台藩領が混在しているところからそのようになっているそうです。

上記の願いを書にしたためた伺書は先に述べたとおりですが、この時一関博物館に展示されていた物は同じ内容で伺書より以前に書かれたと思われる内容のもので一関藩の留守居役を勤めていた須藤家に伝わる屏風の下貼から発見されものでした。
「乍恐以書付奉願候(おそそれながら かきつけをもって ねがいたてまつりそうろう)」
東日本大震災で建物を解体するにあたり一関博物館に屏風が寄贈され、痛みが激しかったため解体したところ中から出てきて見つかったそうです。
しかしながらいつ書かれたものか、文蔵の直筆なのか、なぜ一関藩の留守居役が持っていたのかはこれから調べて行くそうです。

いずれにせよ、たまたま行った博物館で震災で偶然見つかった資料をたまたま説明を受け、それが偶然近所の話で、仙台と一関がつながって…そんな一日でした。


コメント (0件)

コメントする 

オンラインショッピング カートの中身を見る